なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

愛されたい/愛したい

どうも、通院をサボってメンタル死にかけなのなめです。お昼ごろに電話をかけて謝罪するつもりです。通院日を忘れたことと忘れた旨を電話し忘れてずるずる引き延ばした結果がこれですよ…もう二度とやらない…

さあ、今日のお話なんですけど。私のブログを初期から見ている人(は果たしているのか)は、私が「恋人が要らない」と思っている人間だということをなんとなく把握していると思うのですが。…ここ最近、ずっと「愛されたい」と思う気持ちが強くなりまして。恋人がほしいとか、恋愛がしたいとか、そういうよりは「愛して、愛されたい」と思う気持ちが強くなってるんですよね。なんででしょうか。

正直、恋愛らしい恋愛をしたことがなくてですね。ずっと片想いを拗らせてきたので「愛される」ことを経験したことがないんですよ。あ、家族や友人は除いて、恋愛感情的な意味です。遠い昔、本当に小さなころに両想いになったことはあって、その時「好き」の気持ちを貰ったぐらいで、それ以来は本当に、恋愛経験は皆無です。悲しいなあ。

まあ、私の面倒くさい性格とか、発達障害であることとか、そういったハードルが高いことは百も承知なんですよ。でも、人生で一回ぐらいは、満たされるほど愛されてみたいな…と思ってしまう自分がいるんですよ。生涯独身でいいし、結婚する気も子供を作る気もない。けど、一回、一回でいいから、私を心から好きだと思ってくれる人と、私が心から好きだと思った人と、結ばれてみたいんです。

出会いは、自分から動かなければ掴みとれない。出会い系や街コン的なイベントも考えたのですが、なかなか勇気が出ず…。でも参加してみたいなあ。ああいうのって、ちゃんと恋人を求めている人がいるんでしょうか。私みたいな面倒極まりない女をつかまえる人がいるのだろうか…。

自分の事が嫌いでもよくないな、と思うんですよ。恋愛ってきっと自己肯定感を高めてくれるんだろうなあって、今は思うようになりました。別に脳みそお花畑にして、相手の全肯定マシーンになりたいわけじゃないんですよ。お互いの距離感と意見を尊重して、理解して、把握して、想いやって。でも少し踏み込んで、それを許し合える。そんな恋愛をしてみたいんです。まあ、理想でしかないんですけど。ん~、こうやってみると私のハードルって高いのかもしれない。

私、結構ダメな男が好きというか、世話焼きというか、「私がいなきゃ駄目だなあ」って思考に陥りがちなので、そこは本当に、気を付けたいです。ダメ男製造はしたくない。

一番は、私のことを受け入れて、理解してくれる人なんですけどね。これが一番難しいや。

書くことが好きです

どうも、のなめです。もう二月も半ばに差し掛かってきましたね。本当に月日が経つのはあっという間だ。

今回は、私の習慣であり趣味であり人生でもある「書く」ことについて話したいなあと思います。

人はみんな「書く」こととは切っても切り離せない生活を送るじゃないですか。今だって、私はブログを書いているし、授業でノートをとる時も、Twitterで何かを呟くときも、書くことを意識せずに行っている。

私が文章を書く、ということを意識して始めたのは小学校四年生のころでした。元々本を読むことが好きで、空想にふけるのが好きで、自分で物語を描くことが好きで。絵が上手いわけじゃないから、物語を表に出すには文章しか道がなかった。だから、自分で書くようになったんです。始めのうちは上手く表現できない事も多々あったけれど、回数をこなしていくうちになんとか形にはなるようになりました。

なんだかんだ、今でも続けてる趣味のひとつなんですよね。文章を書くって。果たして趣味と呼んでいいものか少し疑問でもあるんですけど、楽しんで、書きたいと思って書くことは趣味と呼べると思うので。

ブログを始めたのは、自分の意思や感情、精神面についての整理をしたかったから、文章を書いて、客観的に読み返すことで、自分自身と向き合いたかったからなんですけど。スタンスは変わらないんですけど、最近は「人に読まれる」ことも少なからず意識するようになったというか。ただの自己満足の文章じゃなくなったかな、と思っています。まあ、思ってるだけで実際はあまり読ませる文でもないんですけど。

正直、私は文章を書くのが好きですが、上手ではないと思っています。人並みよりちょっと上ぐらい? 趣味として続けたせいか人よりは上手く書けるんですけど、自分で満足するレベルではないというか…。ただただ語彙が貧困なんですよね。「わかりやすく、読みやすく」をモットーにしているのですが、同じ文法や表現の使いまわしが目立つので、そこは改善したいな…と思っています。

Twitterで呟くときは、140文字に目一杯自分の意思をぶつけようと思って書きます。添削も出来るだけ妥協しません。気分が乗った時だけですけど。蓋を開ければただのメンヘラなんですけどね…。

でもただ「書く」ことを趣味だけで続けるのもあれなので、今の目標は何かに応募してみる、です。元々創作畑の人間なので、小説の応募をしてみたいな…とか思ったり。受賞するとは露ほども思っていませんが、まあ、挑戦として。

最近はずっとPCやスマホで書いてますけど、アナログで書くのも大好きです。昔はノートに小説書いたりしてましたしね。懐かしい…。

創作系ばっかりだと思うかもしれませんが、雑記とか授業ノートとかを書くのも好きですよ。漢字の書き取りとかも結構好きでした。我ながらマニアック!

これが続けられる仕事に就けたら良いなと思いつつも、現実はそう甘くはないので。まあ、頑張ります。

利他的な私

どうも。大寒波で死にかけなのなめです。

利他的な自分、というものを自覚してから、まあ自分の行動原理をなるべく「他人」に寄せてきたんですよね。自分のためにやる気が出ないなら、自分のために他人を理由にするしかないじゃないですか。なんでこんな遠回りなことをしているんだろうと思わなくもないですけど、仕方がない。

散々書いてきたんですけど、他人の、もっといえば私が好きで信頼している人のためなら、私は犯罪と倫理的に問題なこと以外ならなんでもやります。書類の整理も掃除もラストもやってやります。やる気も出ます。あ、レポートの代筆は絶対やりません。そもそも私が好きな人たちは勉学において私に頼ってくるような人たちではないので、そんな機会はないんですけど。

自分のため、ということを意識すると何も動けなくなります。多分、責任が自分にある=自分にしか迷惑が掛からない、というギミックなのかなあという認識なんでしょうね。これが、「私がレポートの締め切りに遅れる=教授に迷惑をかける→教授のためにレポートを間に合わせる」という回路に至ればいけるんですけど、それはその教授のことを好きにならないと仕掛けづらいんですよね。別に好きでもない教授のために動こうとは思わない、みたいな。いや動けよ。

数年前の私はとてもお人よしだったので、よっぽどいけ好かない人以外の頼みなら二つ返事でしたよ。今は自分のキャパシティを把握しているのでそれはないんですけど。人を好きになる範囲が狭いっていうのも要因のひとつかもしれません。

で、今の私はこの「他人のために」頑張ってきた、というのを、ジリジリと「自分のため」に寄せる作業をしなければいけないんですよ。じゃないと多分この先ぜった折れて死ぬ。引きこもりたいので資格の勉強を始めて、在宅ワーカーを目指しつつ就職活動をする予定なんですけど。自分の見通しと詰めの甘さはまさに折り紙付きなので、油断したくない。希死念慮はあれど、今は絶対死にたくないので、やってやります。

ただ、すぐに「他人のため」の自分をどうにかこうにか出来るとも思っていないので、今はあの「最終的に自分のために、他人のために動く」ことをしていく感じですかね。「最終的には自分のため」すらないことがザラにあるので。

この春が終われば、私の精神と体力がボッコボコになる季節がやってくるんですよ。まあ、他の就活している人たちも同じですけど。そして私は来春三年目なんですけど、できるだけ早く未来の切符をつかむ予定でいます。きっと一般と同じスタートラインで走ったら追い抜かれるので先に走ることにしました。頑張ります。

考えたら胃が痛くなってきましたね、ええ。そして話が逸れるのはいつものお話。あと通院の時間を忘れて連絡も入れてないことに気づきました。明日謝らなきゃ…

失敗から回避する

どうも、寒い冬から抜け出せないのなめです。暖房つけてもあんまり暖かくならなくて、どうしたんだろう…フィルター掃除したら直るかな…という感じです。

さて今回は「回避」についての話を書こうかなと思っておりまして。とりわけ悪いことへの回避が主な話題になると思います。タイトル参照。

私は昔から失敗を恐れる癖がありまして。自分でも呆れるレベルで「失敗をしたくない」という気持ちが強すぎるんですよね。ブログを読んでくださってる人はわかると思うんですけど、失敗して何かを思われることが嫌なんですよ。どうとも思ってないとしても、視線の元に晒されてしまうことが怖い。そこは社交不安症の類なんですけど。

なので、失敗から逃げてしまうんですよね。逃げるっていうか、事前に回避するというか。「あ、これやばいやつだ」と思ったら誤魔化して、逃げてきました。逃げられない方のことが多かったですけど。そういう時は大抵居づらい状況になるので、なおさら苦しいんですよね。でも、私はそうやって無意識に回避を繰り返してたんですよ。

これを意識するようになったのは、だいたい二、三年前ぐらいですかね。精神がやられた時です。その時、私は自分で「今が一番逃げてるな」と思っていたんですよ。でも実はそれ以外でも、細かいことでも逃げてたことに気がついてしまって。でも逃げてるんだか逃げてないんだか自分ではよくわかってないことも多くて。はっきり区別する必要もないのかもしれませんが。

失敗以外の回避だと、人間関係からの回避なんですけど。人間関係で逃げてしまうのも、とどのつまり「失敗」することが怖いから、なんですよね。失言してしまう、期待を裏切ってしまう(そもそも期待されるのか)、思ったようなイメージじゃなかったと言われる、ことが怖くて。

自分に自信がない故に、自分の印象や性格を相手に委ねて判断してもらう節がありまして。他人が知り得ない「自分」じゃない、いわゆる自己概念というやつですか。それを意識しすぎなのかもしれないです。ある意味自意識過剰で、被害妄想が強い。

私って、本当に信頼している相手に対しても「自分」の全部は出さないんですよ。もしかそたら、それが普通なのかもしれませんけど。本当の私を知られて失望されることが、どうしようもなく怖い。まさかこんなにメンタルがやられてる人間だなんて、多分知ってる人はいないんじゃないですかね。親友も、両親さえも知らない私です。

回避して回避して、その先がどうなっているかはわかりません。本当は逃げたくないんですけど。前の記事では理性が強い言いましたが、回避と理性は果たして矛盾するのか。回避はある意味本能で、感情です矛盾していたとしても共存は不可能ではないですからね。だから厄介なんですけど。

理性の強さは脆さ

どうも、のなめです。今回は何を書こうかなあと思っていながらページを立ち上げたんですけど、理性の話を書こうと思います。

理性、というと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。欲望を抑えるブレーキとか、真偽を徹底的に考えるとか、論理的とか客観的とかそういう感じでしょうか。

理性について何を書くの?と疑問に思う人もいると思うんで、手短に。

私は人より理性的である、という自信があります。こと社会面について特に。経済面では…正直理性的とはあまり言い難いので、置いておきます。そこ突かれると本当弱いので。

理性、と言っていいのかわかりませんけど、『誘惑に打ち勝つ能力』であったり『思考を止めずに徹底的に考える能力』がもし理性と呼べるのなら、私は強い自信があります。なんだそれ、と思うかもしれないです。私も正直当てはまるのかわからないです。完全に見切り発車。

人は道理に従って生きています。そこには暗黙の了解やモラル・マナーが潜んでいます。私は正直暗黙の了解なんてものはあってないものだと考えているのでそこは除外で。あんなものは悪しき習慣です。

人の道を外れない、ことについては人一倍自信があります。なんてことはない、優等生なんです。なんちゃってですけど。簡単にいえば、『授業にサボらず出席する』『バイトにサボらず出勤する』『課題を締め切り日に提出する』『テスト日にちゃんとテストを受ける』…これらのことをきちんとこなせてるんですよ。いや、「子供じゃあるまいし」と思う人もいるかもしれません。でも実際、サボる人はいます。テスト日や課題日がわからずのんびりしている人もいます。ちゃんと確認して、記憶して、やり遂げて。これだけで『やりたくない誘惑に打ち勝つ』という行動ができてるんですよ。私ってえらい!

いや、そんな話じゃないんですよ。違います。

端的に言えば『バカになれない』というところでしょうか。狂ったように騒ぐことも、衝動的に行動することもできない。いつまでも、あくまで冷静に努めて考える。それしかできないんですよね。以前記事に「くだらないな」と思った瞬間に冷めてしまう、といったことを書いたんですけど、それなんです。まさにそれ。それを私は『理性』と呼びたいなと思いまして。

例えば「死にたいな」って思ったとするじゃないですか。ああ、今すぐ包丁かハサミで頸動脈を貫くか、首を絞めて死のうかと。そこまで考えたところで「やめよう」と思う、それが理性だと思うんです。怖いから、勇気がないからやめるんじゃなくて、「死なない」選択をすること。それが理性なんだろうなと思うんです。

…とまあ、私なりの理性の定義みたいなものを書いてきたんですけど。理性が強いって、強い一方でつらいんですよね。皆が騒いでバカになってる中で、一人だけそれができない。皆が辛い辞めようって言って辞めてく中で、一人だけ辞めない。そういうところがあるんですよね。なんだろう、クトゥルフTRPGとかで周りが狂気に陥ってるのに一人だけ正気、みたいな。正気でいることのほうが正しいし良いことのはずなのに、まるで間違っているような。状況にもよりますが。

強情、とも取れますかね、これ。私はあくまで理性だと思っているんですけど。「辞めたらダメだけど辞めないと辛いから辞める」ができないのがなかなかキツいところですかね。ブラック社員になってしまいそうな危うさがあります。

あとは、弱音を他人に吐けないところとか。これは単に私が他人に自分の弱さを見せたくないが故なんですけど、これも絡むと本当に面倒くさいです。自分の特性が一番面倒くさい、みたいなことを書いた記事が凹凸まとめさんにもあったな…。いや本当に面倒くさい。

強すぎるせいで気づいたらボロボロになってるんですよ。一気にダメージが表に出て、「え、いつのまにそんなに傷ついてたの?」みたいになってしまう。皆さんはどうかこうなる前に少しは緩くなりましょう。私も今まさになれるようにしてます。さすがにこのまま生きてたら絶対心が死ぬ。

自分の事は考えたくない

自分のことを考えたくないのなめです。人には「もっと自分のこと考えたら?」とかたまに言われるんですけど、いや考えたくないです。自分のことを?考える??いやです。

何で嫌なのか、と問われても「なんでだろうね」という感じなんですけど。もっともらしい理由をつけるなら「自分の優先順位が低いから」ですかね。自分よりも他人の方が、もっといえば私が好きな人の方が大切だから、私のことは置いといて、他の人のことを考えていたいです。

その生活がしんどいことも、メンタル的にやられることもわかっています。実際凄い辛い。もっと自分勝手に生きてもいいんじゃないかって思い始めてきたぐらいには。

でも、その生き方がわからないんですよ。自由って何?みたいな。いや私は自由なんですけど。自分の意思で自分を蔑ろにしているんですよ。それが私の自由であり、意思なんですよ。

それに別に、全部が全部自分を蔑ろにしているわけでもないです。自分を優先する時ももちろんあります。ただその機会が少ないだけで。例えばテストやレポートの締め切りが近いとか、やりたくないとか、そういう時は自分の意思を尊重します。それ以外の時は大抵相手のことを考えてます。奴隷根性丸出しか。

自分でもよくわかっていないんですよね。この生き方が生きづらいこともわかっているし、続けていると自分がダメになることもなんとなく理解しています。でも、中々抜け出せなくて。なんでしょうね、承認欲求が人より強いのかもしれないです。もしくは自分が役立たずだと思っているから、少しでも役に立てるようにしていたいのか。どちらにせよ依存気味なのは自覚しています。

こんなんで一人で生きていこうとするんだからなおさら笑えますね。いや、依存してしまうことがわかりきっているからこその一人なのかも。私の都合で相手を振り回したくないんです。そのくせに私のことを見ていてほしい、認めてほしいという気持ちが強すぎる。難儀な性質をしています。

自分で自分を可愛がれないから、他人に可愛がってもらおうとするんですかね。自分のことを好きになるようにと日々考えて生きていますけど、まだなんというか、難しくて。それに、可愛がってもらってるのは「本当の私」でもないような気がして。化けの皮がはがれてしまった時のことを考えると怖くて。信頼してないんですよね、結局のところ。親にさえもこんなだから、信じられる人も少ないというか…あれ、私自分で自分の首絞めてる。そういうの得意すぎて泣けてくる。

自分をぶちまけられる人に出会ってみたいですねえ、本当に。

親に対する愛と憎

どうも、今日も今日とて平常運転やる気なしなのなめです。

今回は、自分のAC疑惑を取り上げたいと思います。先に言っておくと疑惑で会って確定ではない(診断はされてないです)ので、それを前提として読んでくださると嬉しいです。

私は両親のことが好きです。特に母の事は尊敬していますし、本当に大好きなんです。父は私がオタク的な趣味を持つきっかけになった人ですし、理解もしてくれてありがたいです。

そんな両親を持つ私なんですけど、AC疑惑がありまして。というのも、ACについて調べれば調べるほど「あれ、これ私当てはまるのでは…?」となりまして。とあるサイトを覗いて説明を見た瞬間涙があふれて止まらないという謎現象も起こったので、多分胸に突き刺さったんだと思います。

私は長女で、小学校一年生のころには一人部屋で寝るようになりました。これは私が「自立」を早くしたかったという子ども心からきたものなんですけど、これが私の「一人でも大丈夫」の始まりだったと思います。

我慢することも、抑圧されることもありました。多分普通の子ども並みのそれだったと思います、多分だけど。一度だけ手を挙げられたこともあります。強く記憶に残っているので、心の奥底では引っかかってるのかなとか。

出来損ないを自称して生きていたのですが、割と両親に否定ないしはバカにされることが多くありまして。というのも、私よく物を見失うんですよ。あと指示語に弱い。そのせいで「あそこ」「どこ?」となることが多くあり、そのたびに「アンタ目どこについてんの?」と言われてきました。ちなみに母は口が悪く、その影響か私も口が悪いです。

でも、私、両親の前では「いい娘」であろうとしてしまうんですよ。というか「いい娘」でいたいんですよ。期待してないって言われても、好きなように生きていいよって言われても、自分が出来る範囲で親の期待に応えたいって思ってしまうんですよ。それがどうしようもなくつらい。

反抗期が来なかったのも、親が正しいからっていうのを当時の私は思っていたんですよ。一応補足しておくと「私が理解して納得した上で親の言う事が正しい」と、自分の中では筋が通っている状態なんですよね。それが良いのか悪いのかはさておいて。今思えば反抗しておけばよかったなあ。

知らないうちに縛られてたんですかね、それとも自分で縛られてたんですかね。今でも一人で何かしらの申請や受付に行くことが怖いですし、些細な事でも親に相談して親の判断で物事を進めてしまうのは良くないなあと思っているんですけど、もはや危機感のレベルなんですけど。

私、本当に世間知らずで。常識のある両親からこんなに常識知らずの娘が育つなんて誰が想像したんでしょうね。だって教えてくれなかったじゃない。やり方も言い方も身につかなかったの。私には関係ないって思ってたから。

……とまあ、そんな感じで。結構やばいですよね。去年は「自分で自分の面倒を見る」方法を身につけようと躍起になった時期もありましたし。

一番記憶に残っているのは、受験のときのことです。私、理由あって二浪してから一般で今の大学に入ったんですよ。それでもギリギリで志望したところには入れなくて。「ああ、もっと頑張れば良かったな」と思っていたら、母に「もっと頑張れなかったの?」と言われてしまいまして。ああ、その通りなんです。その通りだから、反論できないことがつらくて。

あとは父の「単位は取れて当たり前」ですかね。私も基本単位は全部取るようにしているんですけど、取れない人も多いじゃないですか。こんなことを簡単に言えてしまうんだな、と思って悲しくなりました。意地でもフル単してやろうとも思いましたが。単位を取ることよりも一つでも多く良い成績を取ることが大事なんですけど。

ううん、こう書くと色々ありますね。というか、私親の言う事を一々真に受けすぎなのかもしれません。いい加減に流すことができなくて、全部真正面に受けてしまうからダメなのかなあ。

両親の事は大好きですよ。両親の仲があまり良くないのは知ってますけど、それでも私は二人が好きです。でも、ちょっとだけ憎んでもいいですよね。