なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

母親の話

セカンドオピニオンを受けたこと、ADHDと改めて診断されたことを、母に言いました。知能検査を受けることについて私が前向きに検討していることを告げると、母はもっと詳しく調べてから考えたいと言ってくれました。「知らない事の方が不安だから、はっきりさせたい」という私の意思を、受けとめてくれたように感じました。

「不安にならないでね」といつもの口調で言われ、思わず泣きそうになりました(ここでの母の言葉は恐らく「発達障害だからといって不安になる必要なんてない」という意味だと思います)。母も発達障害は「個性」と捉えているタイプの人なので、理解して、受け止めてくれると信じていますが、それと母がこれから抱えるであろう心労とは別の話なので、やはりというか、罪悪感が大きいです。

 

私は、ごく一般的な家族のなかにいると思っています。下に二人と両親がいて、本当にありふれた、普通の家族です。私は家族の中では「事なかれ主義」だったので(兄弟がよくケンカをしていたせいでもあるのですが)、ワガママらしいワガママをあまり言わなかったと思います。いつからか、「いい加減だけど素直でワガママを言わない娘」というイメージを、自分の中で無意識下に作っていたように思います。小学生ぐらいのころからずっと、一歩引いて、自然に我慢する機会が多かったです。それ以前はよくワガママし放題で、友達に沢山迷惑をかけていたので、それの反動なのかもしれませんが。自分の意見を押し通すこともありましたが、基本的に、自分が黙ることですんなり解決するのであれば、黙ることを嫌だとは思いませんでした。

家族には我が強い人が多いのですが、私も自分の意見を母に言う事が多かったです。母は頭も良くいろんな考えを受け止めてくれる人なので、私の中にある考えを臆せず伝えることができたのが大きいです。もしこれで異を唱えることができないような環境であったのならば、私はもっと酷いことになっていたのでしょうか。考えるだけでも怖いです。「私はこう思う」ということに対して「母はこう思う」と返してくれて、母と意見交換をすることは、私にとって大切で、大好きな時間でした。

私が抑うつになって、逃げた時も、逃げた後も、ずっと見守ってくれました。時々辛くなるようなことも言われましたが、それらを含めて、私は母にずっと、支えられてきました。

ただの出来損ないだと思っていたら、それ以上の結果になって帰ってきて、やっぱり申し訳ないなとか、駄目な娘だなとか、そういう気持ちが大きいんですが、それよりも、母に、家族に、受け入れてもらえるかということが、やっぱり不安で。杞憂だってことはわかっているのですが、どうしても拭えないんですよね。怖くて仕方がない。

普通になりたいと願う気持ちさえ持たせてくれないのかな。人に受け入れてもらうには、まず自分で受け容れなくちゃダメだってことは、わかっているんですけどね。

精神科通院日記その⑤

紹介先の病院へ行ってきたので、報告も兼ねて備忘録として書いていこうと思います。

正直、新しい病院には不安の方が大きかったです。調べてもこれといったレビューがなく、またあまり評判が良いとは言えないようなものが多かったからなのですが。失敗したくない気持ちが強くあったので、行くかどうかとても悩みましたが、一縷の望みをかけていきました。結論から言うと、行ってよかったと思っています。

まさかのドアノブを開けて入っていくスタイルのところで、最初本当にここで合っているのか少しだけ困惑しました。

予約を入れたときに受け付けてくれた看護師さんに簡単な問診を受けたりチェックリストをしたりして、そのあと先生の診察を受けました。子どもの頃の記憶を辿ったりしながら、たどたどしい受け答えにもしっかりと応えてくださいました。感謝…

結果的にはやはりADHDであるということでした。来週、不注意をチェックするテストを受けてくるので、それの感想などもまた今度書きます。

薬はコンサータ18mgからストラテラの40mgになりました。錠剤が青くてびっくりしました。薬というより毒のようだという印象を受けました…。

 

WAIS3も受けるか考えてほしい、と言われました。お値段聞いて少しだけ尻込みしてしまったのが悔しいなと思いつつ。発達障害支援の方にも申請することになったので、通るかどうかはわかりませんが、私もさすがに受け入れるしかないのかなと思っています。うだうだ言ってきましたが、今度こそ、自分は発達障害であるのだと認めようと思います。さすがに足踏みをしすぎたかな、と感じていますが、遅すぎることでもないので。

とりあえず、ADHDについての本を探してみようと思います。がんばろ。

態度と立場の話

あまり人のことはいえないのですが、強い口調、特に責め立てるような口調の人が苦手です。ただ私自身、内弁慶気質で気を許した相手に口悪く喋ってしまう気質があるから、あまり強い主張はできないのですが。

ただ、よく見知らない人や気心知れた友人でもない人に、強い口調でくってかかる人は、本当に分からないです。私なんかはコミュ障なのもあってか親しくない人には比較的穏やかな対応をするように心がけているのですが、パーソナルスペースの範囲の違いだったりするのでしょうかね。それとも、相手の外見や雰囲気を見て、自分よりも下の立場であると判断したからそんな態度を取るのでしょうか。実際、年上だったり、上司だったり、人よりも上の立場にいると思っている人は、そんな態度をとりがちですよね。

年功序列の大切さは前にやっていたバイトで叩き込まれたので、理解しているつもりですが。今のバイト先でも、年下の子や同い年の人であっても、自分より長く働いているのであれば敬語を使いますし。というか、基本的に敬語で接するように心がけています。

実は、誰が先輩で誰が後輩なのか、あまり理解できていなくて。学生時代、先輩にもうっかりタメ口で話してしまうほど敬語が苦手なのですが、それはタメ口と敬が混ざっていたからなんですよね。であれば、ずっと敬語で接していれば不敬にはならないですよね、という道理です。まあ、ただ敬語でいても態度が悪ければだめですが。同じ時間帯の人たちに対しては、比較的軽く対応するようにはなりましたかね。というか、誰がその時間帯をコントロールするかでも雰囲気って違うと思うので。私が働いている時間帯はだいたい、自分含めて、良い意味でいい加減な人が多いので…。

 

話が逸れてしまいましたが(いつものこと)、自分の立場にかこつけて尊大な態度をとっている人があまり気に入らない、というお話です。その地位につくまでにどれだけ苦労したかはわからないですが、自分が偉いからと言って、他の人が偉くないわけではないし、無下に扱っていいわけではないと思うのです。人を人と思わないから、強く出ることができるのでしょうか。私には理解できません。人の思考回路というものは難しいです。理解しようとしてもできなくて、どのように展開していくのか予想もつかない。それが当たり前です。それでも、理解してほしい、受けとめて欲しいと思ってしまうことも、当然だと思います。理解したい気持ちと、理解されたい気持ちのバランスが大切なんだと思います。

ずっと下の立場にいることが多いので、上の立場の人の考えに沿えないことが、少し悔しいなと思いつつ。誰かの考えなんて理解できないのだから、それでいいとも思いますけどね。

雑談

もし人間のパラメーターがRPG的に表示されるようなシステムであったのなら、精神(MP)が常に擦り切れ状態な気がします、野滑です。HPも決して高くないし、攻撃力、俊敏性、耐久力も低いですが、耐久力だけは装備品のお陰でバフがかかってる感じですかね。つらい。

 

まあ、冗談はさておき。今回は特にテーマはなく(いつものこと)、思ったことを連ねるだけのブログになりそうです。

私自身はどうしようもなくて、驚くほどのダメ人間なのですが、周りに恵まれている自信はあります。私の家族、親戚、友人、恩師、エトセトラ。私の周りには、一癖も二癖もある、けれど素敵で大好きな人たちがいます。以前かかっていた心療内科の先生曰く「周りの人に恵まれていると思うのは、あなた自身が素敵な人だからだよ」とのこと。嬉しすぎたので、一年以上経った今でも覚えている言葉です。類は友を呼ぶ現象。今でもそうは思えないのですが、本当に本当に嬉しかったのです。私が私であったお陰で、こんなに素敵な出会いが多くあるのかなと思うと、こんな私でも良いのかなと、少しは自分を認められる気がしました。

嫌な思いもたくさんしましたし、嫌いだった人たちもいましたが、その人たちとはよっぽどのことがない限りもう出会うことはないでしょうし、過去の事なので、今はもう本当にどうでもいいです。ただ、過去の出来事として思い出されてしまうことはありますが、そこはもう仕方ないので…。

自分が人に好かれるような人間ではないことは十分に自覚していますし、愛想もないし感情表現も乏しいので、きっとそこで私のことを理解できない人たちは私から離れていくのかなあと考えたり。全く自慢できることではないのですが。中学時代までは割と感情表現豊かだった記憶があるのですが、高校に入ってから「笑顔の練習」をするほど笑顔が下手で愛想がなかったんですよね。今でも笑顔は下手くそです。ツボが浅いので、笑うことは得意なんですけどね。

友人たちの評価は「義理を通す」「義に厚い」らしいです。信じた人を裏切らないようにはしているのですが、伝わっていることはなんだか嬉しいです。好きな人にはとことん尽くしますし、少しでも力になれたらいいと思っているので。そのぶん甘えがちになってしまうこともあるのですが、その一つとして、気を許すと口が悪くなるのを直したいなと今は思っています。最近はバイト先の人たちにも口の悪さが伝わってしまいそうなので、本当に気を付けたいです。

自分の愚直さを恨み続けた日々ですが、真っすぐであろうとした結果が今の人間関係を作っているのなら、寧ろ感謝するべきなのかもしれません。ただ、人を疑うことを覚えなかったことは本当に恨みます(軽い詐欺に引っかかったことが一度だけあったので …)。今では少しは疑うようになりましたが、それでも注意を払っていないとすぐに騙されてしまうので、もう直らない気がする…。

精神科通院日記その④

だいぶお久しぶりな、通院日記です。おそらく現在通っている病院では最後の診察になったのでしょうか、を受けてきました。

といっても、診察というよりは紹介状を書いてもらって終わり、みたいな、おおざっぱにいえばそんな感じでした。年末年始薬を飲まなかったので、そのぶんの薬があることを報告したら薬の処方はありませんでした(本当は睡眠薬だけしてほしかったのですが、まあそこは言わなかった私が悪いので)。…なんというか、なんとも言えない気持ちになりましたね。動き出すのが遅かったせいもありますが、この二か月間は一体なんだったんでしょうか。というか、私ははじめ「抑うつ」のつもりで受診したのに。展開が二転三転している気がします。

紹介先の病院には、通院前日にようやく電話をし、「紹介状をもらってきてください。書いてもらったらもう一度電話してください」と言われ、通院後にすぐ電話して、来月には初診の予約を取り付けることが出来ました。果たして鬼が出るか蛇が出るか。

なんだかんだ、先生にも感謝しています。でも、余計なこととまではいわないけれど、予想に反して悩まされるような感じになったので、そこは少し恨みます。きっと、発達障害ではなく抑うつだと診断されて通院し続けていたら、違う感情だったのかもしれないですね。

 

さて、次の病院に向けて、心の準備でもしておきます。

長所の話

今回は趣旨を変えて、自分の長所を主観的に語っていきたいと思います。たまには自分を褒めてやろうという感じのあれです。

 

私は、自分の容姿と性格以外の、自分が持っている要素すべてが好きなのですが(誕生日、利き手、星座、血液型、名前、家族関係、友人関係)、自分の性格で数少ない、好きな部分は、「他人に優しくできる」ということです。当たり前だと思う人もいるかもしれません。しかし、人は自分の理解から外れる人には優しさを見せることはありません。嫌悪感や不気味さが勝るからでしょうか。私には、その感情が薄いのです。というか、どちらかと言えば「いじめられる側」なので、少なからず他人に不快感を与えないようにどんな人にも何らかの理由があって(例えとてつもなくくだらないとしても)、行動を起こしたり、言葉を発したりするわけです。私のテーマの一つである「多様性を認める」に当てはめて、私は私、他人は他人、違うからこそ、自分がされて嬉しい優しさを、相手にもしてあげたいと思うのです。自分がされて嫌なことを相手にするなとは言われても、自分がされて嬉しいことが相手も嬉しいとは限らない、と言われることもあると思います。他人の感情の差し加減なんてわからないから、マイナスよりはプラスのものを与えられるように、出来るだけ、相手にとっての嬉しいを考えながら、自分にとっての嬉しいを相手に渡せたらなと思っています。

 

もうひとつ、私は自分の真っすぐすぎるところが、嫌いであって、しかし誇れる部分だと感じています。私は昔から思ったことはすぐ言ってしまう習性がありまして、それのせいで沢山人を傷つけてきました。言動は単純に脳に浮かんだものをそのまま言葉にしたものから、自分の信念、正義に基づいたものまで様々です。今ではすっかり自分の言葉で相手を傷つけたり自分が傷つくのか怖いので、発言する機会はめっきり減りましたが(表向きで明るくしゃべるのはなぜか得意です)。自分のなりの正義、というと独りよがりなイメージがありますが、私のそれは独りよがりそのものでした。私は、知り合えば知り合うほど嫌われる傾向があるのですが、その理由の一つとしては、冗談が通じないレベルの頭の固さと信念を持っているからだと思っています。基本的に大多数の意見に流されることはなく、多数決の原理により正義となったものを違うと否定することがあったりするので(そこで代替案が出せないのが独りよがりさをより露呈させる気がします)、人によっては「少数意見を貫く私カッケー」に見えるのかもしれません。

人が群れでいることにあまり理解を示せない人間なので、そういった部分も相まっているのかもしれません。

知り合えば知り合うほど嫌われる最大の理由は、恐らく「真面目そうに見えて実はとんでもないクズなものぐさ野郎」だという事がばれてしまうからなのだと思っています。「もっと真面目だと思ってた」と言われたことがあります(これ以上真面目になったらきっといつかぽっきり折れて、根性がねじ曲がってしまうでしょうね)。人より多少は真面目である自負がありますが、それ以上に、人よりも面倒くさがりなものぐさで、クズな部分が大きいんですよね。自分の事を頭悪いとはあまり思わないのですが、あほだなとは常々思ってます。

もう一つ自分の好きなところは、割と自然な演技ができるところ、ですかね。嘘を吐くのはド下手くそだし、誤魔化すのも下手ですが、演技にはちょっと自信があります。だからなんだと思うかもしれませんが(そもそも自分を演じることが少ないので、あまり使う頻度がないのですが)。だますのも好きではないので、まあ、滅多に使わない特技?ですが。いざとなれば、物分かりの良い、従順な女の子も、誰にでも優しくて怒らない女の子も演じられます。ただ口が悪いので、ちゃんとした言葉遣いの女の子になるのは難しいかも知れません…。私の持っている数少ない処世術です。

 

長所の話をするはずが、いつのまにか方向がずれている……。まあ、いいか。

チョコレートと節分

近所のスーパーで、節分どころかバレンタインの準備を始めているようです。あと一か月を切ったとはいえ、気が早すぎてはないでしょうか。可愛らしい包装のチョコレートを眺めることは嫌いではないですが、今年も関係ないイベントになりそうです。まあ、好きな人にだけではなく、お世話になっている人たちに日ごろの感謝を伝えられるチャンスかなとは思うのですが、如何せん手作りは何かと出費がかかるので。お菓子作りは嫌いではないのですが、やはりというべきか、材料選びなどの出費、手間が気になります。バレンタインの経済効果も年々高まってるらしい?ので、バレンタイン商戦的なものですかね。

 

あまり注目されない節分ですが、毎年実家では豆まきを行っています。独り暮らしをしていた時も、一人で豆まきをしていたので、恐らく今年もやります。豆菓子が好きなので、節分時期になるとそれらが取り扱われているのは嬉しい限りですね(鶯豆が一番好きです)。

 

私が普段PCで使っているサイトのネットニュースに『バレンタインはSNS映え重視』みたいな記事が載せられていました。インスタ映えTwitter映えってやつですね。キラキラおしゃれ生活とは無縁な私としては、見た目やインパクトよりも、普通に美味しいチョコレートの方が嬉しいですかね。上にも書きましたが、見た目が可愛いチョコも勿論好きです。

蓋の奥にいる人は、あまり甘いものが食べられないらしいので、渡すとしたら甘すぎないものになるのかな。というかあげるとしても個人には渡さないと思いますが。誰か一人の好みに寄ったものを複数人に渡す恐怖心はぬぐえませんが。無難に市販のものにしようかなあ。ないとは思いますが、リクエストされたら作ろうと思います。

これから先、バレンタインデーまで街を歩くのがやや憂鬱になりますね。カップルの色めき立つ姿を見るのはあまり好きではないので。というか、バレンタインが恋愛イベントみたいなのがそもそも悪いんですよ。まあ、美味しいチョコレートを食べられるという点に関しては、学生時代からずっと感謝していますが。ああ、憂鬱。