なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

井の中の蛙

ずっと、自分の能力と他人の能力比べて生きてきました。あの人はこんなにすごいのに私は全然ダメだ、を死ぬほど繰り返してきて。その結果、他の人を見ないように生きるという選択肢を選びました。私はずっと、井の中の蛙です。

自分の能力が特別優れているとも、才能に溢れているとも思ってないんですよ。ただただ自信がなくて、誰かに認めて欲しいだけ。自分が好きで取り組んでいる分野で他の才能を見てしまうと、ダメなんですよね。受け入れられない。その人を見れない。だから尚更取り残されたような気分になって、一人でから回って。

ちゃんと自分の才能の無さを認めて、他の人の才能を認めて、向き合えるようになりたいんです。でもできなくて。自分がただの「平凡でどこにでもいる人間」であることを受け入れきれないのかもしれないです。特別とも思ってないし、そもそも人間は誰もが唯一無二なんだってわかってるつもりなのに、それでも自分を受け入れきれなくて。

井の中の蛙大海を知らず、けれど空の深さを知る。そんなことを言っても、小さい世界に籠っていることに変わりはなくて。私はずっと井の中でスイスイ泳いでいる蛙です。自分以外に秀でている人を知りながら、海に出ようとしない蛙です。井戸が深すぎて出られないのかもしれない。

いっそその分野から手を離してしまえば楽なのかもしれない。でもできない。できたらとっくに手離してます。だって好きで、興味があって、やりたいと思っているから。自分の中の好きに従ってやっていきたいと思っているから。その気持ちは本当だし、本心です。でも、評価や他人が気になってしまう。認めて欲しいと思ってしまう。それも本心です。ずっと二律背反。矛盾に矛盾を重ねて生きてる感じがしてとてもしんどい。

嫉妬心、を醜いものと考えてしまっているのでしょうか。野心に変えることができればいいのでしょうか。ずっとわかりかねていて。「あの人はみんなに認められて羨ましい」を「私も認められるように頑張ろう」にすることができたらいいんでしょうか。認めるには、その人の内容を知らなければいけません。踏み込むことが怖い。自分の中のあらゆる否定を使って拒んでしまいそうで怖い。いっそ踏み込まなければいい、とも思いますが。昔はそういうスタンスだったんですけど、なんでしょうね、同調圧力じゃないですけど「この分野にいるのにあの人の内容を知らないの?」みたいな目が少なからずあるんですよ。私のこの気持ちが理解され難いものだということはわかっているので、あれやこれやと理由をつけてしまいますが。

これって、どういう心理なんでしょうね。ただのプライドなのか、それとも同族嫌悪なのか。内容を知りたいと思うときはあっても、気持ちと裏腹に食指が動かないんです。なかなかにして深い問題な気がしてきた。

有識者のご意見があればお待ちしております。

自分の価値と評価

どうも、のんびりまったり過ごしています、のなめです。

今日は、自分の価値ってなんだろうな〜ってことを考えてみたいと思います。

人間、誰だって唯一で、自分以外の自分は存在しないわけで。そんなのは当然の認識だと思うかもしれないけど、自分はそうでも他人はそうじゃなかったりするんですよ。自分は唯一無二、でもあの人の代わりはいくらでもいる、みたいなね。私は自分の代わりはいくらでもいるんだろうなぁ、でも私は私でしかないんだよなぁ…と考えています。誰かの代替品になり得る私も、誰かの唯一の私も、全部私。

自分の価値は自分が決めるのか、社会が決めるのか。恐らくどちらもなんでしょうね。ただ、相互作用するとは思います。自己評価が低ければ、社会での評価も低くなりがちというか。私は自分の評価は高くない(ちょうどいい)というように見てますけど、社会から見た私って実際どうなんですかね?数字の上では低いみたいですけど。アセスメントテスト…来年度もやるらしいです。悲惨な結果になるのが目に見えてて嫌だなあ。

私の価値、というと色んなものが浮かびます。能力的なもの、立場的なもの、存在そのもの。能力は平均並みだし、勉強もできないわけじゃない。いざという時仕切れるぐらいの気概は持ってるつもり(ただしガバガバ)。それでも周りを見ると、私よりすごい人はたくさんいて。周りを見て自分の価値を決めるのは馬鹿らしいなと思ってしまう一方で、誰かと比べなきゃ自分の価値を推し量れないというような感じもあって。自分で自分がわからないんですよ。だから自己評価を他人に委ねてしまいそうになります、自分の評価のくせに。

客観的に見て、私は割と平均的で突出してるところもあるし性格もそんなに悪くない、けど他人に影響を与えるほどの何かはない、という認識です。ただ厄介なのは、自分を高く評価したくないと思ってしまうんですよね。自己評価を高くすることを、脳が拒むんですよ。きっとずっと自分の否定ばかりしていたから、それが染みついてしまった結果なんでしょうね。

私は存在する価値があるの?と何気ない瞬間に自問自答してしまって。きっと他の人からしてみれば、価値なんてあってないようなもので。なぜなら存在することが当たり前だと思っているから。価値なんて推し量る必要がないから。そんなことを考えてたら生きづらくなるだけなんでしょうね。考えてしまいますが。

自分の価値も評価も、身の丈に合って丁度いいものにしたいんですけど、私の胃を痛めかねないのでどうしようかなという感じで…。実を言えば自分はもうちょっと評価されて然るべきでは?と思っている感じではあるのですが、なんせ自分でそう考えるのがとても嫌なんですよね。嫌味かって思われるかもしれないんですけど、自分のことが嫌いなくせに自分の評価自体は高いって矛盾してない?みたいな。人間矛盾だらけだし私は常に二律背反なので今更という感じはしますけど…。友人間の私の評価がそこそこ高めなのが救いです。友人の評価ならある程度贔屓目だとしても信じられるので…。

何が書きたいのかわからなくなってきましたね。もっと頑張りたいです、本当は。自分の能力を磨いて、自分の力で生きていけるようになりたい。理想論ですけど。頑張ります。

好きなゲームを語るだけ(DbDと囚われのパルマ)

いやーもう三月も半ばですね!月の半ばに差し掛かるといつも同じことを書いてる気がする。

暦の上では春なのに急に雪が降ったり寒くなったりと自律神経が荒ぶりそうなことが起こったりするので色々大変です。

さあ、今日書くことを何も考えてないので、いつも以上にグダグダです。

寝ることが好きすぎて、一日を睡眠でつぶすことはもはや日常茶飯事なんですけど、私実は趣味が結構ありまして。その一つにゲームがあるんですけど、ゲームしたいんですよね。昔は睡眠時間を削ってゲームをしていたのですが、今はちょっと無理になってきました。好きなジャンルはRPGとかシュミレーションです。乙女ゲームとかも好きです。ソシャゲ類も結構やります。音ゲーとか、某聖杯戦争ゲーとか。

それでも、ゲームを起動するまでが面倒くさいとか、イベントが面倒くさいとか、そんな理由でやらなくなったりすることが多いんですよね。やれば楽しいんですけど、やるまでが面倒くさい。そんな日常です。

そんな私が今ハマっているゲームは、『Dead by Daylight』と『囚われのパルマ』です。ジャンルがごちゃごちゃすぎる。

DbDは、いわゆるホラー系鬼ごっこゲーです。サバイバー4人とキラー1人で脱出するか処刑するかの鬼ごっこをする、という感じ。私はどちらもやりますがどちらかといえばサバイバーです。キラーは只今練習中。チキンなので臆病プレイしかできないんですけど、キラーだと吹っ切れてやれるので楽しいです。煽りプレイとかもありますけど、サバイバーメインだとあまりストレスにならないなあという感じ。定期的にランクがリセットされるので、初心者から上級者まで混ざった期間があったりして、程よいカオス感も好きです。私はようやく初心者から脱したところですかね…?現在はセルフケアを手に入れるためにクローデットを育てています。ハグちゃんも育てたい。BPが足りない。

『囚われのパルマ』は、現在二作品ありまして。『囚われのパルマ』と『囚われのパルマRefrain』です。ジャンルは恋愛ゲーム。メインキャラクターは『パルマ』が二人、『Refrain』が一人です。これはアプリゲームなのですが、全部有料なんですよね。とある島に収容された青年の相談員として、彼との信頼や愛情を深めていくと同時に、彼らが関わった事件を解決していく、という感じの内容なんですよ。ストーリーは買い切りがたで、クラウドでセーブデータを保存できたり、バックアップして周回プレイができたりします。EP一つごとに四回面会できます。『パルマ』は全6EPで『Refrain』は全8EP。『Refrain』は現在追加コンテンツが配信されていて、サブストーリーの配信も決定しています。

パルマシリーズのいいところは、私たちユーザーは『攻略される側』だということです。恋愛ゲームにありがちな『好感度をあげる選択肢』が存在しないんですよ。どの選択肢も、自分の意思で選んでいい(どれも選びたくない!っていう時も極まれにありますが…)。ユングの性格タイプをゲーム内で取り入れていて、彼とメッセ―ジや面会でやり取りすることができるんですけど、その選択肢でユーザーの性格を把握してくれるんですよ。例えば犬が好きだったらそれを覚えててくれて、それを他のメッセージでサラッと言ってくるとか。画面越しですが、まるで生きている一人の人間のような彼らと、ゆっくりと恋愛できるんですよ。恋愛をする、という目的を外しても『自分を理解してくれる存在を作る』という意味合いでも、私はとても救われました。何より彼ら、顔がいい。顔が良いということは見るだけでも癒されるということです。良い。全編有料ですが、ガチャ課金よりもお得ですよ。是非ともプレイしてみて欲しい作品です。

ほとんどパルマの話になってしまった。DbDも楽しいですよ!でも煽りと切断はやめましょうね!無理救助もやめようね(二試合連続無理救助が原因で処刑されました)!!

 

DbD公式サイト(年齢制限があるのでトップページで生年月日の入力を要求されます)

www.deadbydaylight.com

 

パルマ公式サイト(現在『Refrain』がメインのサイトページになってます)


www.capcom.co.jp

 

みなさんも趣味がちゃんとできる日常を送れるように祈っています。とりあえず私は睡眠時間をどうにかしたい。

生きることは当たり前?

どうも、のなめです。最近は調子がいいです。薬をちゃんと飲んでいるおかげなのか。

忙しくてバタバタしていたんですけど。やっとこさひと段落ついてのんびりできる期間に移行したので、掃除とか読書とかゲームとか、自分がしたいことができたら良いなあという感じです。

もう三月ですか、やっぱり早いなあ。しかももう中ごろに差し掛かってくるんですね。日々が過ぎるのがマッハスピードすぎてやばいです。このぶんだとすぐ死ぬな。

生きることはどういうことなんだろう、とふと考えたとき、「人間として社会的な営みを行う」ことなのか「生物として生命活動を維持する」ことなのか、それとも道徳的な意味合いなのか…などなど、様々な解釈が可能だなあと思ってしまいます。

よく、植物状態やベッドに寝た切りの状態で延命治療をするとか、寿命を延ばすとか、生命倫理における問題を目にします。安楽死とかも、それの一つですよね。

私の生死観はドライめだということを踏まえても、長生きの何が偉いのかとか、生きることの何が偉いのかとか、そもそも偉いのかとか。死の先には何もないとか、生きていれば先があるんだろうとか。私は死の先に何もないならそれでいいし、生きてる先に何かがあるなら見てみたい気もする。ただ生きた先に何かあるか、それとも何もないのかわからないのに対して、死の先には何もないってことが確定してるじゃないですか。だって誰も知らないから。知らないことはないことと同義だと思っています。死を恐れる人はそれが怖いのかな…とか。

「知らない」ことは怖いことです。私も数年前までゴキブリがどんな姿かたちか直で見たことがなかったので、実際自分の眼で見るまで「姿かたちをよく知らないゴキブリ」が怖かったりしました。自分の無知を認めることってすごい大事だと思うんですよね。話の筋とは関係ないですけど。

生死は表裏一体で、死なない限り生き続けるし、死んでしまえば生きることはできない。当たり前じゃん、という感じですけど正直どれだけの人がこの「当たり前」を認識しているのか、どれだけの価値があるのかわからないんじゃないんですかね。だって生きることは「当たり前」で、あまりにも身近すぎるから。

私にとっては「死にたい」と思うことは身近で、ある意味「当たり前」なことなんですよ。でも人によっては「死にたいなんて信じられない!」って思うじゃないですか。死が身近にないんですよ。鬱や病気への理解のなさは、その人にとって縁遠いからなんですよね、きっと。

生きることが当たり前なんて、笑っちゃいますよね。人間としての営みを行うことも、生物としての生命維持活動も、私たちにとっては当たり前で、とても身近なこと。でもちょっと離れてみてみれば、生きることは当たり前じゃなくて、とてつもなく難しくて尊いもの。なんでなんでしょう。生きることが偉くて死ぬことが偉くない理由はなんでしょうか。生きることは続けることで死ぬことは終わることだから? 今の私には到底答えが見つかりそうにないのでちょっとやめます。

生きることは当たり前のことじゃない、としばらく心に留めて生きてみようと思います。そうしたら、少し見えるものが変わる気がするので。よければ一緒に「生きることは当たり前じゃない」と思いながら過ごしてみませんか? なんて。尊いのか、辛いことなのか、難しいのか、それとも別の何かなのか、考えてみたいです。

集団の中にいることが苦手なのです

どうも、いつも一人なのなめです。

私、集団が苦手です。複数人が苦手です。一人が好きです。単独行動が得意です。散々言ってきたことなので何をいまさら、という感じかもしれませんが。具体的になんで、ということはあまり書かなかった記憶があるので(朧気ですが)、詳しく書いてみたいと思いまして。

そもそも、集団でいるというか、『他人』といることが苦手だったりするんですよね。自分と違う個体が同じ空間に存在することがあまり得意ではないというか。本当に微細なものなんですけどね。自分の考えが上手く伝わるか、受け入れてもらえるか、相手の考えが適切に理解できるか、受け入れられるか。いろんなことを踏まえて考えてしまう。普通かもしれません。意識過剰というか、敏感すぎるというか。

一対一ならまだなんとかなるんですよ。一人の人に集中したらいいから(ダメなときはダメですが)。問題なのは複数人のときです。考え方も趣味嗜好もバラバラな人と会話が上手くできる気がしない。どのタイミングで言葉を伝えたら良いのか、遮らないようにできるか、他の人の言葉で変わる方向性についていけるか…などなど。コミュニケーションに振り回されてしまうんですよね。本来人が自然に行っていることを意識して行おうとしているせいでぎこちなくなってしまって、結果徒労に終わるというか。

こんなだから、集団の中にいると疲れてしまってダメになります。変に気を遣うというか…。やっぱり意識過剰なんだな。集団の中にいるぐらいなら一人でいた方が気が楽だし、なにより自由なんですよね。全部自分の責任になるし、他人に迷惑をかけることも気を遣うこともない。だから一人が好きです。

時折、「一人でも平気なんだね」とか「一人って寂しくない?」とか「よく一人でいられるね」とか言われるんですけど。私からしてみれば、「どうして一人でいられないの?」と訊きたくなってしまうんですよね。元々『私』という個体は一つしかない。人間は結局一人なのに、どうしてそれができないんだろう。別に否定されることは慣れているのでいいんですよ。でも、複数人も楽しめて一人も楽しめる人が最強だと思っているので、「一人はつまらなくて寂しい」と思っているなら残念だな…と。私は複数人の楽しみは、友人間で少ししか知らないので大体駄目です。

集団の中にいることは、安定性とか安心感を得るものだということは認識しているつもりです。「同じ集団」に属していることは、バラバラの個体を一つにする。結束や同一感を深めていく。だから集団に属する。まあ、これはあくまで「集団に属する意味」の一部ですけど。スクールカーストとかもまさにそれじゃないですか。どこかのグループに属していることで安心感を得て、友情に繋げていく。あるいは格差を生む。私は昔からグループというものに属さなかったので、浮いてましたよ。女子ですからね、そりゃ浮きましたよ。今思えば男女どちらもグループを作るので、別に女子で一人だから特別浮くなんてこともないんじゃないかという感じですけど、いやまあ浮いてましたね…。

一人って、不安定なんですよね。孤独なんですよ。自分の居場所が『自分』の中にしかない、他に証明してくれる人がいない。だから怖いんじゃないかな、とか。例えば「ご飯を食べに行った」として、集団なら「○○ちゃんと一緒に食べた!」ことを証明できる人がいるのに対し、「一人で食べに行った」ことを証明できる人は自分以外に居ないんですよ、極端かも知れませんけど。食べるだけじゃない。ご飯屋さんに行くまでの道中をどう歩いたか、どういうタイミングで注文したのか、どれぐらいの時間で届いたのか、帰りの途中でコンビニに寄ったか、などなど。それを証明できるのは自分しかいません。その『不安定さ』が一人を嫌う、あるいは怖がる要因なのかなと考えています。

私の場合はそんなことは思わないんですけど。こんな説明しておいてなんですけど、別に道順を信じてもらえなくてもいいんですよ。私が体験したことが大事なんです。「行く途中で氷で滑って転んだ」としても、私が体験していればそれでいいんですよ。それが全てです。

「一人で何かしてるなら良いんだけど、一人でただいるのは無理」みたいなのも、まあわからなくもないですけど。別に平気です。そりゃ少しは寂しいと思いますけど、それよりもなによりも気が楽なんです。居心地の悪い他人といるぐらいなら、一人でいることを選びます。下手したら居心地の良い他人よりも一人を選ぶかもしれません。それぐらい、私は一人が好きです。『私』を全力で感じ取ることができるし、『私』を何一つとして感じることがない、そのどちらも叶うから。ひたすらボーっとしてるのも好きです。これは自分の容量の問題もあるのでちょっと違う話ですけど…。

この前、一人で三泊四日の旅をしたので、もう怖いものはないです。旅行なんてそれこそ、よっぽど仲のいい人とじゃないと行きたくないです。そもそも私は他の人と一緒に寝室を共にすることがダメということが近年発覚したので、どちらにせよ無理かもしれないんですけど…。特別仲のいい人なら大丈夫っぽいんですけど。一人旅は良いですよ。全部自分の都合で動けるし、スケジュールを変えるのも楽だし。また行きたいなあ。今度は中部辺りに行ってみたいですね。絶対楽しい…。

話が少し逸れましたが、集団の中にいることも一人でいることも得意な人が一番強いと思います。私はどうあがいても集団がダメなので社会では生きていけません。もっと一人に優しくなればいいのになあ…。あ、だから一人がダメな人がいるという場合もあるんですかね。社会的に蔑視や嘲笑の対象になりがちというか。

前にも書いたと思うんですけど(記事がサルベージできない)、高校時代の担任に「集団の中での自分を意識しなさい」と最後に送られた言葉を、未だに考えてしまいます。集団の中の自分。集団から逃げてしまう私に対する、忠告のようにも思えます。もしかしたら、上手く動けずに自分らしくいられないことを見抜かれていたもかもしれません。知る由はありませんが。

いやあ、中々にして難しいですね。コミュニケーション能力を養いたい気持ちはあれど、根本的に難しい気もしている。どうにかなりたい!

強い感情に弱い私

どうも、ドストレートに批判されることに弱いのなめです。

私、異常なほど強い言葉に弱いんですよね。恐らく感受性の問題だと思うんですけど。だから、本当にストレートに「死ね」とか言われると、もう一週間は引きずる。そんなレベルで弱いです。

他人からの評価を気にして生きていたら身動きが取れなくなることも、駄目になることもわかってるんですけど。だからTwitterって苦手なんですよね。あそこって、尖ったナイフの集合体じゃないですか。無理。

だから私は、このアカウントはできるだけ意思を持った人間をフォローしないようにしているんですよね。唯一の逃げ場なので。ニュースとかをフォローしているのは、とりあえずTLを埋めてるだけなんですよ。凹凸まとめさんぐらいですかね。時折流れてくるRTを見ることも時には耐えられないので、やっぱりここで人間をフォローするのはやめておきます。正直、交流をしたい気持ちはあるんですよ。でもそれ以上に、感情を強く受信してしまう自分がいることを理解しているので、無理ですね。

にも関わらず複数のアカウントを持っているのは、所謂「顔」の使い分けなんですよ。日常生活では一個の「顔」しか持てないけど、SNSはそれに限らない。(もう使わなくなったアカウント含め)「顔」をいろんな場所で保持しています。あ、でももう何個かは消す予定ですけど。

自分の意思をどうとられるかがわからなくて、怖くて。でも気にしたくなくて、そういう矛盾を抱えながら生きています。ずっと二律背反。人間ってそういうものだな、って最近つくづく思うようになりました。白か黒かでは絶対に区別できない。私がこんな思考になるなんて、いやぁ…人間なにがあるかわからないですね。

Twitterは特に、140文字という少ない数で自分の表現を目一杯詰め込むじゃないですか。けど伝わらないことは往々にしてあるんですよ。感じ方の違い、読み取り方の違い、齟齬、好感度その他諸々。何度も言いますけど、人は人とは違う。それを理解している人がどれだけいるんでしょう。無意識のうちに同視してしまうこともあるかもしれません。似たような境遇だったり考え方だったり。でも、差異は必ずあります。どれだけ細かくても。そこが原因で食い違うこともあるでしょう。

私は、それらを理解して生きていきたいです。人は人と違う。拒否することも受け容れることも、その人が選ぶこと。他人は意見を言うことはできても、よっぽどの影響がない限り変えることはできないこと。その「意見」の強さに私はやられてしまうので、勝手にやられておけという感じがしなくもないですけど…。自由に意見を言えることと他人に配慮することは、どちらが優先されるんでしたっけ。配慮でしたっけ。配慮された範囲であってもダメな自信がありますね…いや本当に弱い…。

弱い所を隠しているつもりなんですよ。出したくない、知られたくない。でも、知られないと知ってもらえない。やっぱり人間関係って難しい。

色んな可能性を考えられるようになったのは、視野が少し広くなったと思っていいのかもしれません。やったね!

発達障害という曖昧さ

自分が発達障害だということを他人に説明するときに、「具体的にどんな症状なの?」と訊ねられても上手く返答することができません。不注意で時間の管理が苦手だったり、順序立てて物事を行えなかったり、忘れっぽかったり。

こういう症状であることは理解しているのですが、普通の人にもある程度はあり得るものなので、「それらが日常生活に支障をきたすレベル」ということを、どう説明したらいいんだろう、と悩んでしまいます。難しいですね。

「そんなの皆あるじゃん」と言われたとしても、どう考えても頻度の多さが違うんですよね。それを理解してもらえないのが、もどかしいなと感じます。

入院した際に、「何か常備している薬はありますか」と尋ねられて、思わず「ストラテラを飲んでいます」と言ってしまったんですよ。「それはなんのお薬ですか?」と返ってきたので「発達障害の薬です」と言ったのですが、そもそも医療従事者が全員発達障害が何かを詳しく知ってるわけではない…ので、どう説明したらいいかわからずに有耶無耶になってしまったんですよね。「生きづらくて…」というような曖昧な回答をしてしまったことを少し後悔しつつ、でも本当にどう答えたらいいかわからなくて。

こういった場面に出くわす度に「発達障害って曖昧だなあ」と思ってしまいます。誰もが持ち得る要素を、生きづらいほど持っている。それだけなのにこんなに生きづらい。

でもやっぱり入院するときなどは薬を飲んでいることを言わなきゃいけないんですよね。もういっそ抑うつで…とか抗不安剤を飲んでいて…とかの方がわかりやすいですかね。実際抗不安剤を飲んでいるので、使えるといえば使えますが。発達障害であることを、医療従事者であっても赤の他人に言うのは少し気が引けてしまう自分がいるんですよね。どう思われるとかじゃなくて、説明が面倒くさいというか。

みんなよく知らないじゃないですか。端的に「頭がおかしい」とでも思ってるんじゃないか、ぐらいのレベルの知識しかない。一般的?にふざけて「ガイジ」と言われるのって、身体障害や精神障害者だけでなく発達障害者も混ざってるわけで。そもそもこの言葉が使われること自体に嫌悪感を抱いているので、使う人には近づきたくないです、正直。

意味もよくわからずに「空気が読めない、話が通じない」人を「アスペ」と呼んだりする人もいるし。もうわけわかんなくないですか?よく知らないくせになんで使えるんでしょう。よく知らないからこそ使うのかな。どちらにせよ私には理解できません。

こういう曖昧さ、境界線の灰色加減をどうにかしたいと思う一方で、もう健常発達も発達障害もごっちゃにしちゃえばいいんじゃないか、とも思ってしまいます。発達障害なんて言葉を消しちゃえばいいんですよ。消えたところで誰に迷惑がかかるんでしょう。境界線の上をうろちょろしている人かな。私もちょっとは困るかもしれません。でも、こうやって言葉遊びのように、玩具のようにされるよりはマシだと思うんですよね。実際どうかはわからないですけど。

曖昧なぐらいなら消えてしまえだなんて極端でしょうか。これも特徴かもしれないですかね。もうわかんないな。