なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

自己犠牲と承認欲求

どうも、のなめです。自分で言うのもなんなのですが、割と自己犠牲をしてしまいがちです。自分の中では「これは正しいことだ」と思いながらしているわけなのですが、時々、本当に正しかったのか、ただの自己満足の一種なのではないかと不安になってしまいます。

自己犠牲、というとなんだか仰々しいですけど、言ってしまえば他人に手綱を引かせることが嫌なだけなんですよね。自分で一から全部やりたい、みたいな。良くないことだっていうのはわかっているんですけど、できるだけ自分の手で物事を進めたい人間なので、自分で仕事を請け負ってしまいがちなんですよね。

他人を信じていない上に自分を信じているという、自分嫌いにしては矛盾した事柄なんですけど、私は自分の能力自体はそんなに卑下するほどのものではないと思っています。あと、任せたくないのは自分よりも経験が浅かったり信頼に足る人物でない場合なので、自分が嫌いな事とはあまり関係ないかな?と考えています。

こう書くと、あまり自己犠牲という感じではないですね。ただ他人に任せるのが嫌なだけな人だ。自分では犠牲になっているという認識でもないし、これはあまり正しくないかもしれません。強いて言うなら、誰もやりたがらない役を引き受けがちというぐらいですかね。

例えばですけど、議論や企画を進める上で「進行役」や「まとめ役」が必要になった時、周りがやりたくない、という雰囲気になった時に、そういった役を請け負うことが多いです。自分に苦労が回ることよりも、議論や企画が滞って進まない事の方が、私は嫌なので。その結果、変に安請け合いしてしまうことが多いです。

 

自分の事はどうでもいいんですよね、本当に。だから利用されてしまうことも結構あって。個人的にはそれでも構わないんですけど、どうせ利用されるなら上手く利用してほしいじゃないですか。「あ、この人私のことどうでもいいんだな」みたいな感じになってしまうと一気に冷めて断ることがあります。表面的にでもいいから感謝の気持ちがほしいです。それを見返りにして、私は私にできることを精一杯やりますから。

私のこういった行動って、「誰かの役に立てた」ことを実感して自己承認欲求を満たしているのかなあという感じで。ある意味他人依存的な要素を含んでいるんですよね。よくないなあ。理想はアガペーなんですけど、私は人間なのでやっぱり無理ですね。

誰かの役に立つことで、自分の存在を認めて、生きてていいんだって考えて。自分が生きてていいって思いたいから、誰かの役に立ちたくて。それだけじゃなくて、純粋に誰かの役に立てることで、相手が喜んでくれることが嬉しいんです。喜んでくれることが嬉しいから、頑張りたくなるんです。これを自己犠牲と呼ぶのなら、それでもまあいいかなあ。

客観的に見ていくと、破滅型のそれに近い気もしますけど、私の気持ちは至ってフラットというか。こう思うのは不特定多数ではなくて、私が好きで認めていて、信頼に足ると思った人に対してこうなるんですよね。どうでもいい人に対しては本当にどうでもいいので、完全に冷めてます。きっと昔よりも今の方が冷たいな。昔はどうでもいい人に対しても割と同情しやすいというか、親身になったりもしたので。

 

どんどん話が逸れていってしまった。なんだか、年を経るごとに感情が薄くなっていってる気がします。INFP的にはよくないですね。でも感受性とは関係ないかなあ。