なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

優しいと自覚する

どうもお久しぶりです。新年度始まりましたね。早々に潰れかけてるのなめです。

タイトルはどういう意味だ、と思うかもしれませんが。まあ簡単に言えば「私は優しい性格だって自覚してますよ」というお話です。

「自分は〇〇な性格だ」って言ったりするじゃないですか。真面目だ、とか、熱い、とか。多くはマイナスイメージ(性格が悪いとかものぐさだとか)であるとは思うんですけど、自己認識の一環としての性格把握というか。

それを踏まえて、私は自分が「優しい性格」であることを自覚しているんですよ、っていうことです。自分で自分を優しいって言うなんて、そんなの本当に優しい人じゃないじゃん、みたいな反応は予想済みです。でも、自分の優しさを自覚してない人はただ利用されてる人だと思いませんか。いわゆる「都合のいい人」です。私は割と「都合のいい人」になりがちで、そのせいで数多の貧乏くじを引かされてきました。

それに、周囲に散々「優しいね」って言われてるのに「いや、私別に優しくないよ」なんて言えますか? 私は言えません。私の言動が優しさでないなら、これ以上のものが優しさになってしまうじゃないですか。そんな高いハードルを飛ぶ気はありません。今のままでも私は十分優しい性格だと自負しています。

こんな考えに至ったのは、本当につい最近で。それまで私は「見返りのない優しさ」を自分で「優しさ」とは言わず与えてきたことが多くありました。他人からしてみれば、最初は「優しさ」かもしれないけど、徐々に「当たり前」になっていくんですよ。私は善意でやっているし、見返りは求めていない。お礼の一つでもあれば良い。そう思ってやることが、いつしかお礼もなく、しなければ咎められることになるんですよ。一部の場合ではありますが。

そんなのはもうたくさんなんですよね。自分は基本的に見返りのない優しさを与えること(ボランティア的な優しさとでも言えばいいんでしょうか)は嫌いじゃないし、むしろそう心がけてはいます。でも、それがいつまでも「優しさ」であることをわかって欲しいんです。決して当たり前じゃない。当たり前になった瞬間に、私はその人から離れます。

だからこそ、私は私が「優しい」ことを自覚する必要があるし、そのことを他人に言っても別に構わないと思うんですよ。自分の優しさを知っていてなにが悪いんでしょうか。それを踏まえた上で優しいことを褒めて欲しいぐらいですよ。いやこれは見返りか…でもたまには褒められたいですよ、私だって。

それに優しさを自覚したところで、私が何か変わるわけでもないんですよ。いきなり意地悪になったり性格が歪んだりするわけじゃない。無知の知みたいなものですよ。自分が無知なことを知るように、自分の優しさを知るんです。その方がきっと上手く優しさを使えるから。もう好きな相手にしか優しくしたくないんですよ本当は! なのに万人に優しくしちゃう自分が中々に憎い! という感じです。

優しくて生きづらいなんて、どうしようのない社会ですね。正直者はバカを見るんですよ…嫌だなあ。