なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

自信を持つ・調子に乗る

 本当の意味で自信を持ったことは、記憶の中ではないかもしれない。

 自分自身の性質や性格、能力を考えて「何が取り柄?」「何が強み?」と聞かれても、うまく答えられない。『最後まで諦めないで物事を進行させること』とか『傾聴力』とか【敢えて言うなら】みたいな、搾りかすのような回答ばかりしてきた。

 当たり前だけど、面接官は私と会社が合うかどうかを考えて、私を測る。私は少しでも合わせようと、嘘ではないけど本心からではない大袈裟な、繕った回答を考える。そんな就職・転職活動が嫌いだし、できるなら転職なんてこれ以上したくない。

 自信を持つことは、自分の能力を信じるだけじゃなくて、周りが自分の能力を正当に評価してくれるから生じるもの……である気もしている。認められる→自信を持つ、というプロセス。だからと言って、私の周りが私を適切に評価していないとは言わない。

 見た目の自信なら、幼い頃に壊れてなくなってしまった。人生で3回『ブス』と言われたことがある。小学校、中学校、高校でそれぞれ1回ずつ。小学校の頃は名も知らない、おそらく少し年上の女の子から。中高はクラスメイトから。今でも忘れられないので、もはや呪いと化している。その呪いは、まあ色々あって少しずつ小さくなっていっているけれど。

 学力の自信は、高校で終わった。進学校に進んだばっかりに、井の中の蛙が海を知ってしまったのだ。3年間ずっとクラスに馴染めないこともあり、部活以外に学校へ行く意味をあまり見出せていなかったのもある。少し前は『浮いてた』と表現していたけれど、今だったら『腫れ物だった』と言える。

 それでも憶えているのは、中学のとき。1年だったか2年だったか忘れたけれど、後期の模試で国語が100点だった。当時の国語教師(担任でもあった)に、「100点取れるなんてすごいね」と頭を撫でてもらったのを、今だに時々思い出す。

 こういう『褒め』の思い出で、親が記憶に出てくることは(私の場合)ほとんどない。褒めてくれていなかったのか、それとも親からの褒めが『当たり前』になってしまったのか、わからない。字が汚いと散々馬鹿にされた記憶は残っているので不思議だ。

 自信を持ったことは記憶にないけれど、調子に乗ったことなら数えきれないほどある。適当に作った料理が美味しかった時、大学のレポートを締め切り前日に一夜漬けで完成させた時、創作で面白いと感じるアイデアを思いついた時。「私って天才じゃね?」とたくさん思った。それは一瞬の、冗談じみたものでしかないけれど。

 『調子に乗る』ことがプラスに働いて、自分や周囲に良い影響を与えることができたならば、きっと『自信』に変わるのだろう。でも、私はいつまでもそうならなかった。今も。

 なんでこんな話を?と今自分でも思う。最近になって、複数人から「自信を持って」とアドバイスされたからだ。自分の持っている能力を、(おそらく)正当に評価してもらえたからだ。この20数年培ってきた『自信のなさ』を、粉々に破壊する転換期が来たのかもしれない。

 調子に乗るのは、一瞬だから簡単だ。じゃあ、自信を持つのは? 違いは何か。私の感覚の話でしかない。

 新年度も近づいてきているし、今年の目標は『自信を持つ』にでもしましょうか。

希死念慮が顔を出す

『死にたあー嘘です』

 寒くなってくると、いつもより多めに希死念慮が顔を出してきます。寒暖差でメンタルがやられてるんだな、日光不足なんだな、と頭ではわかっているものの、それでもふとした願望が頭をよぎってしまう。だからせめて、即、否定する。『私は本当は死にたいわけではない』と頭に言い聞かせる。『疲れてるんだ。何か美味しいものでも食べよう』と思って、つい買い食いをしてしまったりする。少し後悔して、また死を思う。これの繰り返し。

 相変わらず、人間関係には恵まれています。一部を除いて。その人たちのお陰で生きていると言ってもいい。私は本当に恵まれている。こんな世の中であっても。それなのに、それとは関係なく希死念慮が顔を出してくる。その度私はその感情を即否定して、『私は生きたいんだ』と言い聞かせる。

 この感情と出会ってからもう10年近く経ちます。そんなに経ったのか。自分でも驚いています。10年前から前進している気がしないのは、私の『変わりたくない』気持ちの表れでしょうか。少なからず、変わってることはあるとは思いますが。性格はどんどん悪くなっている。

 自分の将来を考えたとき、『自分と自分の家族以外の人と生きる世界』を視野に入れつつあって、そういうところも変化なのか? と思っています。『理解のある〇〇』かどうかは怪しいところですが。私みたいな人間が家庭を持てる気は全然しないし、親になる気はさらさらありませんが。

 先ほど旧Twitter坂口安吾の名言が流れてきたんですが、確かにそうだな、と妙に納得してしまいました。『死ぬことなんていつでもできる』 確かにそう。

 『そんなつまらないことなんてしてはいけない』

 死ぬこと=つまらないこと。

 目から鱗だ。著書を読みたくなった。気が向いたら読んでみようと思います。

 生きることは辛いこと。だけどそれが生きること。どうしたら少しでもこの辛さが和らぐのか、苦しくても生き続けられるのか。それを考えながら生きなければ……と思います。

 きっとこの先も、希死念慮が顔を出す。どんなときも。たとえ一生一緒に生きていきたいと思ったら人の前にいたとしても。それでも生きなければいけない。生きてさえいればいいんだから。

思うより多忙なフリー

 気づけば食べ物がおいしい、外で過ごしやすい季節になりましたね。気づけば今年も残り二か月になりました。インターネットには触れているものの、最近のTwitterの物騒さたるや。出現率もあまり高くなくなっています。

 近況としては、収入は減ったものの、そこそこ忙しい毎日を送っています。人生で初めてダブルワークというものをやっていますが、確定申告ができるか不安です。なんとかなるか。

 「自由には責任が伴う」とは誰が言ったのか。まさにその通りで、自由になったことと一緒に、生活の責任・金銭的な責任など、いろいろな責任を痛感しています。多分それだけではないのだろうけれど。税金の支払いが目に見えてわかるようになったのは、良いことなのかそうじゃないのか。

 今後の人生を色々と考えて、まさかの結婚が視野に入ったり入らなかったりしていますが、来年中にはなんとかまたフルタイムの生活に戻りたいな……と思っています。生活していくためにも、貯金していくためにも。このままフリーで続けていけるほど、思い切りも大胆さも積極性も持ち合わせていない。帰属性も高くはないですが(……)。今の生活は割とストレスフリー感はあって好きなのですが、金銭面に不安を覚えていため、仕方なしの社会人生活に戻る選択肢を考えています。

 お金の使い方といえば、無駄遣いが一番のネックですが、買い食いや外食は出来るだけ控える(それでも期間限定には惹かれてしまう……)やスキンケア・コスメ類の見直しとか、衣服の新調などなど、できるところからやっていければなと。こんなこと考えながら生活したいわけではないんですけどね。気づけばジュース類やお酒も全く手を出さなくなりましたが、久しぶりに棚を覗いたら値段の高さにびっくりしました。アップデートしなければ……。ここ数年で一気に値上がりも酷くなり、ますます全体的に貧しい方向に進みそうで嫌になります。本当に。これをなんとかしてほしいな!と現在進行形で行われている総裁選に目を向けています。政治は詳しくないですが、政治の話も気軽にできるようになる世の中になっていけばいいな~。そう変わりつつはあるとは思いますが。軽く話せるぐらいがきっとちょうどいいんだと思います。自分ごとに変えていくためには。

 とまあ、いつもは書かないような話もしつつ、フリーの大変さも実感しつつ。これから寒くなっていく中でのメンタルの不調がどうなるかも頭に入れながら、今年も残り乗り切っていきたいところです。今年最後の記事になるかはわかりませんが、気が乗ればまた何か書きに来ます。

悪いところを変えるには

 結構色んな人に「変わらないね」と言われてきました。特に、昔からの私を知っている人には。それが良いことなのか悪いことなのか、認識せずに今日まで生きてきたのですが、じゃあ一体「変わる」ってどういうことなんだろう? という疑問がふと頭を過ったんです。

 良い意味でも悪い意味でも、人間の性格って変わりますよね。私も、さすがにずっと子供の頃のままの性格でいるわけではない……と思っています。昔よりは色んな世界を見て、若干性格が悪くなった(都合の悪いものに目を逸らすようになってしまった)と思いますし。

 人に見せている性格に変化がなくても、自分だけが把握している性格は結構変わってきている。そこのギャップがあるんでしょうかね? 「変わらないね」と言われても、「いや、そんなことはないぞ」と思うことが増えました。『表に出すものは、できる限り綺麗な自分でありたい』という見栄からくる性質が変わっていないというのは、果たして良いことなのか悪いことなのか。

 ADHD的要素とか、自分のことが嫌いなところとか、性格以外でも変わらない部分があって、きっとそこにも良し悪しがあるんだと思います。ただ、『自分が思う自分の良い/悪いところ』と『相手が思う自分(私)の良い/悪いところ』って、違うこともありますよね。相手にとって悪いところは、できるだけ改善したいなとは思うんですけど……。

 自分が一番直したいのは、報酬系の働きが弱すぎることと、意志薄弱なところですかね。自分の意志が弱いせいで誰かを傷つけることがあるのだろうか。わからないけれど。

 誰かを傷つけたくなくて、わざと曖昧な言い回しをしていることが、却って傷つけてしまうのなら、それはもう直すしかないんだろうな〜と思う一方で、強い意志を持つことに慣れていないので、どうしたら良いのやら……という気持ちでもいます。

 先延ばし癖も長年の悪癖(というか性質)だし、片付けられないのも、衝動買いをしてしまうのもそう。自分の欲求に素直すぎるのか? 多少は理性で抑えられてると思ってたんですけど……。

 努力が足りないと言われればそうなんだろうな。うだうだ言ってないで、小さなプライドを守るぐらいなら大人しく受け入れたほうがいいんだろうな。

 健常者になりたいわけでもないし、なれないし、だからと言って手帳がもらえるレベルではないし。中途半端にぶら下がっているだけ。人によっては「努力不足」で全部片付けられる。理解してほしいとも思わない。わからないだろうし。

 結局、「努力」の二文字で片付けるしかないのでしょうか。工夫もできたらいいんだろうな。口先だけじゃなくて、行動ができたらいいんだろうな。ダメな自分にとことん凹みますけど、なんとか改善していきたいですね。

どうやって生きようかな

 フリーターみたいな身分になり、時間が大幅にあるのですが、勉強の時間にあてずに睡眠とインターネットに使ってしまうという、典型的なダメ人間生活を送っています。危機感はそこそこあるので、朝は早めに起きておくとか、教本をペラペラめくってみるとか、そういうことはしているんですけどね。

 刺激がない日々で、強い刺激を受けることが苦手な性質の人間がやることって、たぶん睡眠なんだろうなと思いました。寝るのって気持ちいいし、何も考えなくていい。ただ罪悪感じみたものを抱くし、「ダメな人間だ……」という感情が湧いてくるのですが。

 ルーティンを作って、そこに当てはめていけば少しは動けるようになるのかな、とか、ADHDに効きそうなDoingリストアプリを入れてみたりとか(まだ実際に活用はしてないんですけど)、そういうことはしてみています。あとは、とりあえず手を付ける。何も考えずにやる。結局のところそれが一番効きます。

 自室にこもってると結局寝がちなので、寝ないようにベッドのない部屋で作業だったり勉強をしてみたり、外に出て作業と勉強以外しないような環境を作ったりとか、そういう工夫をしなければ何もできない人間なんですよね。Twitterで見た、スタバやドトールなんかで作業している人間の『意識低い側』に該当するのでしょう(家だと何も手につかないから無理やり外で作業する)。

 いっそのこともう一回お薬を処方されたら楽なのか? とも思うのですが、大学時代よりも症状が酷くなっているのかと言われると……どうなんでしょうか。部屋の片づけは半年以上やってないですが、汚いわけでもないしなあ……。実生活で困っていることと言えば、相も変わらない先延ばし癖でしょうか。最近は逃げ癖も付きそうなので、そこはなんとか踏ん張っています。

 私みたいな、社会の圧やら競争やらのプレッシャーですぐダメになる人間が、この後どうやって生きていくかはとても悩ましいところですが、だからと言ってパートタイムで生きていけるほど甘い世界ではないですし(実家暮らしだとしてもね)。長生きする気ゼロだとしても、ある程度生きていくためのお金は手元にないと不安です。貯金は多少ありますが、切り崩していけるほどの余裕もないしなあ……。辞めたことに後悔はないですが、もう少し考えて決めてもよかったかな? まあ、後の祭りですが。

 運よく今目指している道を進めたとしても、続くかどうかはわからない。最近、働くにあたって『仕事の好き嫌い』よりも『職場の人の好き嫌い』のほうが影響力が大きいんだなということに気が付きました。最悪仕事内容ってなんでもいいんだな(適性云々はあれど)。でも100%良い人だけの職場なんて存在しないし(私が相手にとっての『良い人』になり得るかもわからないし)、妥協と適応で生きていくしかないんですかね。

 結局なるようにしかならないよな~。

半分無職になりました

 タイトル通り、半分無職になりました。半分、というと変な感じがしますね。一応職を失ったわけではない(良い言い方をすればフリーランス)のですが、自分の感覚的には、限りなく無職に近いので、あえてこういう表記をしました。フリーランスの方を馬鹿にしているとかそういう意図は全くありません。むしろ自分で仕事の管理ができるって素晴らしいし羨ましい。私にはできそうにない。

 辞めた理由としては、人間関係です。というか上司が嫌で仕方がなくて辞めました。「そんな理由で?」って思うかもしれないですが、ほぼ毎日耳が痛くなるぐらいの音量で怒られてたら気が滅入ります。あとワードチョイスがかなり最悪に近い。条件は悪くなかっただけに若干悩みはしましたが、新卒で入社したところよりも未練はないです。寧ろ前の会社には戻れるなら戻りたいぐらい。

 ……そんなわけで、今は求職&資格取得に向けて勉強中です。以前、転職活動をしている、というような記事も書いたんですが、ちょっと失敗したのと忙しすぎて気が回らなくなってしまったので、一度腰を据えて、しっかりやろうかなと。ただ、家にいると先延ばし癖が本当に酷い。なので近所のカフェとか、ちょっと遠くの図書館とかに行って作業なり勉強なりをしようかな……という感じです。年々強く感じますが、一年は本当にあっという間に終わってしまう。

 私の人生で『無』の期間があったのは、専門中退後に大学に入学するまでの約半年間と今なんですよね。意外と何もしていない時期がない。何もないというのは刺激がない分ストレスもないですが、つまらないというのも半分本音です。ほどよいストレスというのは人生において重要なスパイスなんだなあ、と他人事に思う今日この頃。

 まあ、試験勉強も少しずつ進めてはいるものの、正直現段階で合格する気が全くしない。本腰入れてやらないとまずいなーと心から思っているものの。様々なライフハックを駆使して、なんとか合格をつかみ取りたい所存。

 同時に就職活動も並行して進めていくつもりなので、案外暇ではないかもしれない。そのほうが余計なことを考えなくていいかもしれないけれど。将来のこととか、諸々。将来のことを考えるとどうしようもなく憂鬱になってしまうので、今は軽く考えておきたい。

 金銭面を考えてもこの状況をいつまでも続けるわけにはいかないので、今年度中には環境を変えられるようにしていきたい。頑張ります。

許すから、許して

 人の能力は千差万別。私に得意なことがあれば苦手なことがあるように、人には得意不得意が存在する。ある程度なら苦手なこともしなければいけないし、なんとか改善を試みようとするものなんでしょうけれど。

 私は、人より不得意なことが多いと自負しています。聞いたことは大抵すぐ忘れるし、集中力もなくてマルチタスクができない。締め切りのない仕事ができない。タスクが積みあがるとキャパオーバーしてしまう。

 『そういう人間だ』と自分は割り切れても、他人はそうもいかない。「得意じゃなくてもやらなければいけない」瞬間はある。それがどれだけ苦手なことでも、やりたくなくても。

 私は自分にも他人にも甘いという認識でいます。よほど大事でなければ相手のミスは許しているつもりです。それは、私のミスも許してほしいから。改善して同じミスを繰り返さないように十分注意はするのですが、それでもミスをしてしまうときもあります。怒られても仕方ないなという時も勿論あるのですが、親の仇かのように詰められて本当に納得いかない時もあります。

 ミスが許されない現場、というのはたくさんあると思います。医療現場然り、建築現場然り。というかどの業界にも『許されない瞬間』というのは存在すると思います。そこさえミスしなければ、いいんじゃないか? と思う自分は甘いのだろうか。経営者になったことがないので、損益とかそういうことを考えたことがないから、こんなことを書けるのかもしれないけれど。

 今の職場では、割と「ミスは許されない」雰囲気が漂っている気がして、とても重苦しいです。まあ、もう少しで辞めるんですけど。そう思ったら一気に解放されて、あれやこれやが結構面白く感じています。どうでもいいけれど。

 私みたいな『社会不適合者』が在籍するにはあまりにも息苦しい職場でした。雰囲気って大事だなあ。あと、ある程度ミスに寛容なところじゃないと私は無理なのかもしれない。許されない環境で働いている人たちには、頭が上がりません。

 人の得意不得意を理解して把握して、お互いに尊重できれば良いのですが。一方的に詰められるのはあまりにしんどい。別に「私は許したのに貴方は許してくれないのね」という愚痴を書いているわけではなく、そもそも「お互いに許しあう」ような場所じゃないんですよね。結構いびつだな、と入社してすぐ感じました。人に対する直感は割と正しいことがあるのですが、当たってしまった。それをもっと早く発揮したかった……。

 職場への愚痴はこのぐらいにして。私くらいは、小さいミスぐらいなら笑って流せる人間になりたいです。ここにきて、コミュニケーションの大切さを痛感しています。