なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

雑談

もし人間のパラメーターがRPG的に表示されるようなシステムであったのなら、精神(MP)が常に擦り切れ状態な気がします、野滑です。HPも決して高くないし、攻撃力、俊敏性、耐久力も低いですが、耐久力だけは装備品のお陰でバフがかかってる感じですかね。つらい。

 

まあ、冗談はさておき。今回は特にテーマはなく(いつものこと)、思ったことを連ねるだけのブログになりそうです。

私自身はどうしようもなくて、驚くほどのダメ人間なのですが、周りに恵まれている自信はあります。私の家族、親戚、友人、恩師、エトセトラ。私の周りには、一癖も二癖もある、けれど素敵で大好きな人たちがいます。以前かかっていた心療内科の先生曰く「周りの人に恵まれていると思うのは、あなた自身が素敵な人だからだよ」とのこと。嬉しすぎたので、一年以上経った今でも覚えている言葉です。類は友を呼ぶ現象。今でもそうは思えないのですが、本当に本当に嬉しかったのです。私が私であったお陰で、こんなに素敵な出会いが多くあるのかなと思うと、こんな私でも良いのかなと、少しは自分を認められる気がしました。

嫌な思いもたくさんしましたし、嫌いだった人たちもいましたが、その人たちとはよっぽどのことがない限りもう出会うことはないでしょうし、過去の事なので、今はもう本当にどうでもいいです。ただ、過去の出来事として思い出されてしまうことはありますが、そこはもう仕方ないので…。

自分が人に好かれるような人間ではないことは十分に自覚していますし、愛想もないし感情表現も乏しいので、きっとそこで私のことを理解できない人たちは私から離れていくのかなあと考えたり。全く自慢できることではないのですが。中学時代までは割と感情表現豊かだった記憶があるのですが、高校に入ってから「笑顔の練習」をするほど笑顔が下手で愛想がなかったんですよね。今でも笑顔は下手くそです。ツボが浅いので、笑うことは得意なんですけどね。

友人たちの評価は「義理を通す」「義に厚い」らしいです。信じた人を裏切らないようにはしているのですが、伝わっていることはなんだか嬉しいです。好きな人にはとことん尽くしますし、少しでも力になれたらいいと思っているので。そのぶん甘えがちになってしまうこともあるのですが、その一つとして、気を許すと口が悪くなるのを直したいなと今は思っています。最近はバイト先の人たちにも口の悪さが伝わってしまいそうなので、本当に気を付けたいです。

自分の愚直さを恨み続けた日々ですが、真っすぐであろうとした結果が今の人間関係を作っているのなら、寧ろ感謝するべきなのかもしれません。ただ、人を疑うことを覚えなかったことは本当に恨みます(軽い詐欺に引っかかったことが一度だけあったので …)。今では少しは疑うようになりましたが、それでも注意を払っていないとすぐに騙されてしまうので、もう直らない気がする…。

精神科通院日記その④

だいぶお久しぶりな、通院日記です。おそらく現在通っている病院では最後の診察になったのでしょうか、を受けてきました。

といっても、診察というよりは紹介状を書いてもらって終わり、みたいな、おおざっぱにいえばそんな感じでした。年末年始薬を飲まなかったので、そのぶんの薬があることを報告したら薬の処方はありませんでした(本当は睡眠薬だけしてほしかったのですが、まあそこは言わなかった私が悪いので)。…なんというか、なんとも言えない気持ちになりましたね。動き出すのが遅かったせいもありますが、この二か月間は一体なんだったんでしょうか。というか、私ははじめ「抑うつ」のつもりで受診したのに。展開が二転三転している気がします。

紹介先の病院には、通院前日にようやく電話をし、「紹介状をもらってきてください。書いてもらったらもう一度電話してください」と言われ、通院後にすぐ電話して、来月には初診の予約を取り付けることが出来ました。果たして鬼が出るか蛇が出るか。

なんだかんだ、先生にも感謝しています。でも、余計なこととまではいわないけれど、予想に反して悩まされるような感じになったので、そこは少し恨みます。きっと、発達障害ではなく抑うつだと診断されて通院し続けていたら、違う感情だったのかもしれないですね。

 

さて、次の病院に向けて、心の準備でもしておきます。

長所の話

今回は趣旨を変えて、自分の長所を主観的に語っていきたいと思います。たまには自分を褒めてやろうという感じのあれです。

 

私は、自分の容姿と性格以外の、自分が持っている要素すべてが好きなのですが(誕生日、利き手、星座、血液型、名前、家族関係、友人関係)、自分の性格で数少ない、好きな部分は、「他人に優しくできる」ということです。当たり前だと思う人もいるかもしれません。しかし、人は自分の理解から外れる人には優しさを見せることはありません。嫌悪感や不気味さが勝るからでしょうか。私には、その感情が薄いのです。というか、どちらかと言えば「いじめられる側」なので、少なからず他人に不快感を与えないようにどんな人にも何らかの理由があって(例えとてつもなくくだらないとしても)、行動を起こしたり、言葉を発したりするわけです。私のテーマの一つである「多様性を認める」に当てはめて、私は私、他人は他人、違うからこそ、自分がされて嬉しい優しさを、相手にもしてあげたいと思うのです。自分がされて嫌なことを相手にするなとは言われても、自分がされて嬉しいことが相手も嬉しいとは限らない、と言われることもあると思います。他人の感情の差し加減なんてわからないから、マイナスよりはプラスのものを与えられるように、出来るだけ、相手にとっての嬉しいを考えながら、自分にとっての嬉しいを相手に渡せたらなと思っています。

 

もうひとつ、私は自分の真っすぐすぎるところが、嫌いであって、しかし誇れる部分だと感じています。私は昔から思ったことはすぐ言ってしまう習性がありまして、それのせいで沢山人を傷つけてきました。言動は単純に脳に浮かんだものをそのまま言葉にしたものから、自分の信念、正義に基づいたものまで様々です。今ではすっかり自分の言葉で相手を傷つけたり自分が傷つくのか怖いので、発言する機会はめっきり減りましたが(表向きで明るくしゃべるのはなぜか得意です)。自分のなりの正義、というと独りよがりなイメージがありますが、私のそれは独りよがりそのものでした。私は、知り合えば知り合うほど嫌われる傾向があるのですが、その理由の一つとしては、冗談が通じないレベルの頭の固さと信念を持っているからだと思っています。基本的に大多数の意見に流されることはなく、多数決の原理により正義となったものを違うと否定することがあったりするので(そこで代替案が出せないのが独りよがりさをより露呈させる気がします)、人によっては「少数意見を貫く私カッケー」に見えるのかもしれません。

人が群れでいることにあまり理解を示せない人間なので、そういった部分も相まっているのかもしれません。

知り合えば知り合うほど嫌われる最大の理由は、恐らく「真面目そうに見えて実はとんでもないクズなものぐさ野郎」だという事がばれてしまうからなのだと思っています。「もっと真面目だと思ってた」と言われたことがあります(これ以上真面目になったらきっといつかぽっきり折れて、根性がねじ曲がってしまうでしょうね)。人より多少は真面目である自負がありますが、それ以上に、人よりも面倒くさがりなものぐさで、クズな部分が大きいんですよね。自分の事を頭悪いとはあまり思わないのですが、あほだなとは常々思ってます。

もう一つ自分の好きなところは、割と自然な演技ができるところ、ですかね。嘘を吐くのはド下手くそだし、誤魔化すのも下手ですが、演技にはちょっと自信があります。だからなんだと思うかもしれませんが(そもそも自分を演じることが少ないので、あまり使う頻度がないのですが)。だますのも好きではないので、まあ、滅多に使わない特技?ですが。いざとなれば、物分かりの良い、従順な女の子も、誰にでも優しくて怒らない女の子も演じられます。ただ口が悪いので、ちゃんとした言葉遣いの女の子になるのは難しいかも知れません…。私の持っている数少ない処世術です。

 

長所の話をするはずが、いつのまにか方向がずれている……。まあ、いいか。

チョコレートと節分

近所のスーパーで、節分どころかバレンタインの準備を始めているようです。あと一か月を切ったとはいえ、気が早すぎてはないでしょうか。可愛らしい包装のチョコレートを眺めることは嫌いではないですが、今年も関係ないイベントになりそうです。まあ、好きな人にだけではなく、お世話になっている人たちに日ごろの感謝を伝えられるチャンスかなとは思うのですが、如何せん手作りは何かと出費がかかるので。お菓子作りは嫌いではないのですが、やはりというべきか、材料選びなどの出費、手間が気になります。バレンタインの経済効果も年々高まってるらしい?ので、バレンタイン商戦的なものですかね。

 

あまり注目されない節分ですが、毎年実家では豆まきを行っています。独り暮らしをしていた時も、一人で豆まきをしていたので、恐らく今年もやります。豆菓子が好きなので、節分時期になるとそれらが取り扱われているのは嬉しい限りですね(鶯豆が一番好きです)。

 

私が普段PCで使っているサイトのネットニュースに『バレンタインはSNS映え重視』みたいな記事が載せられていました。インスタ映えTwitter映えってやつですね。キラキラおしゃれ生活とは無縁な私としては、見た目やインパクトよりも、普通に美味しいチョコレートの方が嬉しいですかね。上にも書きましたが、見た目が可愛いチョコも勿論好きです。

蓋の奥にいる人は、あまり甘いものが食べられないらしいので、渡すとしたら甘すぎないものになるのかな。というかあげるとしても個人には渡さないと思いますが。誰か一人の好みに寄ったものを複数人に渡す恐怖心はぬぐえませんが。無難に市販のものにしようかなあ。ないとは思いますが、リクエストされたら作ろうと思います。

これから先、バレンタインデーまで街を歩くのがやや憂鬱になりますね。カップルの色めき立つ姿を見るのはあまり好きではないので。というか、バレンタインが恋愛イベントみたいなのがそもそも悪いんですよ。まあ、美味しいチョコレートを食べられるという点に関しては、学生時代からずっと感謝していますが。ああ、憂鬱。

悪いもの

前回、自分の不器用さについて書きましたが、加えて要領と察しも悪いのです。言外に含まれる意味を読み取れないし、全体の状況を把握せずに一つの事に集中してしまう。はっきり言ってもらわないと理解できないし、複数の事に手を付けることが出来ない。自分の行動心理や考えさえよくわかっていないのに、誰かの考えなんてなおさら分からないです、と開き直っておきます。感受性、共感性は強いほうなのですが、それとこれとはまた別のお話のようです。おまけに空間把握能力もあまりない。本当に成人しているのか疑いたくなるほど幼稚な思考回路をしていると思っています。捻くれ者ですが、捻くれずに生きてきた弊害が出てきたのかもしれません(矛盾しているように思えますが、私の中ではこれが正しい表現だと思っています)。

もしかしたら、世の中の言う「常識」が、私の中には備わっていないのかもしれません。空気を読むとか、覚えがなくてもとりあえず肯定の返事をするとか。そんなのが常識であるならば、むしろ備わっていなくても良いと思ってしまうのですが。そんなので社会に出た時に生き抜けるのかと不安になってしまうのですが、今現在でさえ生きづらいと思っているのに、きっと今以上につらい日々を送るのが目に見えています…。

 

「自分に自信がないのなら、自信をつければいい」なんて簡単に言う人は、少しでも自分に自信があって、自分を誇れて、自分が好きなんだと思います。それはとても素晴らしいことで、けれど同時に残酷な事でもあります。極論を言ってしまえば、「鬱は甘え」と言っている人と何ら変わりないと思います。変わりたいのに変われないことは甘えでしょうか。努力を重ねれば実を結ぶこともありますが、そうじゃないこともあります。自分の力ではどうにもできないことがあります。

私は散々、自分に自信が持てないこと、自分が嫌いなこと、不器用なこと、要領が悪いこと、全部、「そのままでいいじゃないか」と肯定をしながら、「そんなのは全部甘えだ」と否定する日々を繰り返してきました。誰かに期待してほしいと思う反面で、期待しないでほしいと思い始めて、遂には私に期待する人なんてどこにもいない、という考えに至りました。それなのに、理想の自分を捨てきれない。こうでありたいと思う自分を、駄目な私と照らし合わせることが、苦痛で仕方がありません。

社会では速さが求められると思います。即戦力、という言葉をよく目にするせいかもしれません。より早く仕事を覚えて、より速く仕事をこなす。効率的に、正確さはその中で身に着けていくといったような、そんな社会である、という印象があります。

私には、はやさはありません。何度も何度も重ねたルーチンワークの中ではそれなりのスピードで出来ますが、基本的には考えて行動する方が性に合っています。中学時代の先生が言っていた言葉が今でも印象に残っています。「一番は『素早く正確にできること』、二番は『ゆっくりでも正確にできること』。素早くても正確でなければ意味がない」

非効率に、けれど締め切りには間に合うように、自分のペースで、最大限良いものを作る。驚くほど速く流れる社会の中で生きていけない私が、生きていこうとするのであれば、こういうやり方になるのかな、と思っています。

 

変われない事を甘えだと、子供だという人もいると思います。私もそう思っています。だからこそ苦しい思いをしている事を、どうか、頭の片隅にでも置いてください。人は、自分の物差しでは測れない。不器用で、要領も察しも悪い私を、どうか、悪いものとして、決めつけないでください。

雑談

コンサータの副作用で問題なのは喉の渇きよりも動悸かもしれない、と考え始めました。喉の渇きは飲み物を飲めば何とかなりますが、動悸の対処法を私はあまり知りません。心臓の音が強く響いて、うまく言葉に出来ないのですが、気持ち悪くなってしまいます。気になりすぎて作業等がスムーズにいかなくなったり。気の持ちようかもしれませんが。

 

先日、神社に初詣をしてきました。おみくじは大吉だったので満足です。占いや診断系のものは娯楽として好きなので、当てはまっても当てはまらなくても、やるのは楽しいし好きです。そういえば、性格判断等を何個もやったのですが、その度に「お前は社会不適合者だ」と高々に言われている気がして苦笑を浮かべざるを得ませんでした。恋愛には圧倒的に向いてない、似合う職業は家庭人か芸術家(いわゆる社会に馴染めない人が当てはまる職業ですよね…)、お金も稼げない、etc…。改善しようとする向上心もない、とか、正直その通り過ぎて笑うしかなかったのですが。ただ、感受性や他人への理解、気遣いの部分では高い評価を貰ったのでちょっと嬉しかったです。他人に理解されない自覚は十分にあるので、そこを改善したいと思うかどうかかなとも思います。

段々普通への憧れが薄くなっているというか、もしかしなくても自分は凡庸な人間なのでは、と思い始めてきました。理由はよく解らないのですが。社会に馴染めていないという意味では普通ではないですけど。才能に溢れているわけではないし、普通でないと思っている部分はほとんどマイナス面なので、普通になろうとする方が寧ろ精神的に良い事なのかもしれないですけど。

不器用な話。

ここ数日、精神的に良い日が続いています。調子が良い…。いつもは一日おきに気分が浮いたり沈んだりしていたのですが、今回は数日間、特に沈むことなく過ごせています。このまま調子が上がっていけばいいなと思うのですが、何気ないきっかけで一気に沈むことは目に見えているので、その準備をしつつ調子がいい時に出来ることをしたいなと思っています。

 

話は変わるのですが、私は超絶不器用です。手先もだし、性格的にも。なんとか克服したい!と思ってネットで検索してみたのですが、「ピアノ、キーボードのタイピング、折り紙」が例に挙げられていました。私は中学までピアノを習っていましたし、小学生時代からタイピングをやっています(ブラインドタッチが出来る程度ですが)。確かに折り紙は苦手で、鶴ぐらいしか折れませんが…。料理も良いらしいですが、私はそこそこやっていても全く上達する素振りを見せません。考えながら、イメージしながらやっているつもりでも、実際は全然うまくいかなくて、イメージから少しでも離れると慌ててしまうんですよね。それが問題なのかもしれません。

『不器用な人の特徴』みたいなサイトに書かれていたことは全て当てはまっていて、ぐうの音も出ませんでした。段取りを考えるのが苦手、自分に自信がない、感情表現が乏しい、決断したことについて悩んでしまう、要点を抑えるのが苦手なせいで丁寧にすべきところと大まかにすべきところを間違えてしまう、等々。想定外の事に弱かったりするのも特徴らしいですね。そしてこの不器用さは発達障害にも繋がっているようで、サイトにその文字を見た瞬間変な笑いを漏らしてしまいました。

前々からこの手先の不器用さを直したいと思っていたのですが、最近、バイトでもスキルが少しずつ上がっていくのにつれて、「この不器用さを何とかしなければ」と強く思うようになっていきました。私の不器用さは周知のところではあるのですが、それにしたって酷すぎるんですよね、本当に。よく今まで生きてこれたなと他人事のように思ってしまいます。とりあえず、「イメージして、そのイメージを持ちながら、作業をする」事をトレーニングしていこうかなと考え中です。難しいですが頑張ります…。