なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

コミュニケーションの話

みなさんは、コミュニケーションを取るのは上手でしょうか。私はド下手くそです。話題が浮かばない、話を続けられない、色々なことを考えてしまう、興味が無い、等々、そんなことが原因で、人と話すのは上手くありません。人と話すとき、いつも念頭にあるのは「傷つけたりしないか、失言をしてしまわないか」です。人と接するのが億劫になっているのと同時に、怖くて臆病になっているんだと思います。思ったことをすぐ言ってしまうせいか、失言も多いので、傷つけないよう言葉を選んでしまっているうちに喋れなくなってしまったようです。

そこで困るのが、人に対して褒めるとか、慰めるとか、労わるとか、そんな言葉が上手く出てこない事です。気持ちは十分にあるのに、気持ちを伝える言葉が出てこない。だから、伝えられない。伝えたとしても、いつもワンパターンになってしまう。もどかしくて、でもどうしたらいいかわからなくて、いつもモヤモヤしてしまいます。もっと上手に伝えられたらいいのに、出来ない自分が嫌になります。

世間話も上手じゃありません。面白い話題なんかもってないし、そもそも興味もないんだろうなと思ってしまうから。自分に対して卑屈すぎるというか、斜に構えすぎというか。だから、自然体でいられる人と一緒に居られるのが一番心地が良いし、そういう人相手になら、少しは話もできるんですけどね。ただ、総じてツッコミ役に回るので、ついきつい言葉を言ってしまわないかが少し不安だったりします。結局は、人を傷つけることで自分が傷つくのが怖いだけというか。失言してしまったりした日は、反省と後悔でかなり悶々としてしまいます。普通の人はこうなったりしないんですかね?

コミュニケーション能力を鍛えようと何かしら試みたりしたものの、燃費の悪さや容量の少なさ、自分の性格も含めて、成功した試しがないです。せめて聞き上手にはなろうと思ったのですが、それもうまくいっているかは不明…。もっと人のことなんて考えずに、自分らしく振舞えばいいのに、と思わないこともないのですが、人を不快にさせて結局は自分に返ってくるんですよね。なので、やっぱり今の状態が「自分らしい」コミュニケーションの方法なのかなとか思ったり。

別に人の顔色を窺っているから臆病になっているわけではなく、人の感情とか、内心思っていることとかが読めないから、それが怖いだけなんですよね。これもここ数年で気づいたんですけど、私、人の思ってることとかを読み取ることができないというか。ハッキリわからないとすごい怖いんだってことに気づいたんですよね。だから本当に、「空気を読む」とか「遠回しな表現」が苦手で。はっきりしてほしいです。行動で示すよりも、言葉でちゃんと示してくれた方が私にとってはありがたいんですよね。それができる人が多くないから、困ってるんですけど。ただ、それとは別に感受性が強いのは何故なんだろうと、不思議に思う日々です。

生きづらさの話

一人暮らしを始めてから、テレビを見なくなりました。あんなに好きで、ずっと見ていたアニメも、なんとなく気になって流し見していたドラマも、ニュース番組も、見なくなりました。元々バラエティ番組に然程興味が無いので、テレビを見る意味も感じなくなっています。アニメならBlu-rayやDVDを買ったり借りればまた見れるし、ドラマだってそう。最近見たドラマは「おっさんずラブ」です。ハマりにハマって、Blu-rayを予約するにまで至りました。

それとはまた別に、最近、色んな問題が浮き彫りになって、日本という国を疑いそうになってしまいます。問題の浮上がきっかけで、良い方向に進んでくれたらそれに越したことはないのですが、きっとそういうこともないのでしょうね。

私自身は右でも左でもないと思っているのですが、こう、立て続けにゴタゴタがあると、流石に疑わざるを得ないというか。一体どこへ向かっているのか、不思議で仕方がありません。こういうのはニュースを見たりするのが一番いいのかもしれないのですが、偏向報道が気になってしまうので、それすらも疑ってしまいます。もうなにがなんだか。

私はただ、あらゆる人が生きやすい、幸せになれるような世界が良いなと思います。綺麗事で、理想論でしかないのはわかっていますが。

 

また話は変わるのですが、この国で生きることの難しさ、というか、生きづらさをひしひしと感じています。男尊女卑というだけでなく、障害者差別に至るまで、SNSを見ていると、どうしてそんなことを言えるんだろう、と思ってしまうようなことを簡単に言う人がいて驚きます。私もSNSをやっていますが、とことん向いていないなと思ったり。人と繋がることがそもそも苦手なのもありますし、沢山の情報に疲れてしまうので。色んな考えに触れるのは良いことだと思っていますし、多様性を認める上で、あらゆる意見があることを否定するわけにもいかないですし。難しい。

そもそも、攻撃的な意見を見ると、それだけでへこんでしまったりするので、やっぱりSNSは向いていないなあと感じます。大学卒業したら、ゲーム用以外のアカウントを全部削除してしまおうかしら。というか、色んな情報が一個のアカウントに集まるのが苦手なので、アカウント分けをしすぎてごちゃごちゃしてるんですよね。全然使っていないアカウントも何個もあったりして。社会人になったら、いっそのことミリマリストでも目指そうかしら。人間関係の断捨離は驚くほど躊躇しないのですが、物関係の断捨離は上手くできないので。

もうこの際海外にでも逃げてしまおうかと考えたりもするのですが、私、英語をまともに喋れないんですよね。もう一回勉強し直そうかな…。逃げる逃げないとは別に、外国には行ってみたいと思います。他国の文化に触れることで、見える世界もまた変わると思うので。

自分が生きづらくしてるのか、それとも土壌が合わないのか、それはまだわかりきっていませんが、もう少し生きやすい世の中にできるように、最低限の努力はしたいです。できるだけ、根性論とは遠い感じで。

怒る話

みなさんは、最近いつ怒りましたか?私はというと、憶えている限りだと今年の三月が確か最後だったと思います。大人になってから、怒りの沸点が高くなったのか、怒ることがなくなりました。ちょっとキレ気味になったことはありますが、心からイラついて機嫌が悪くなることも、誰かに自分の感情をぶつけることも、目に見えて少なくなりました。それだけ自制が効くようになったのか、それとも感情を曝け出せる相手がいなくなったのか。どちらにせよ、精神的に成長したなあと思う要素の一つです。

そもそも、無表情と不愛想と、少し低めで平坦な声色も相まって、怒っている、もしくは不機嫌だと思われることが多いんですよね。別に本人は至って温厚(なはず)で、大抵のことは笑って済ませるか、仕方ないと呆れながら許しています。幼少期が血気盛んだったので、その反動だったりするのかもしれません。むやみやたらに怒っても、自分も相手も疲れるし、委縮させてしまうのは嫌だし。良いことなんて何もないですよね。叱るのと怒るのとはまた別ですし。昔は、自分の感情に赴くままに生きたいと思っていましたが、今はできるだけ理性的でありたいです。とはいえ、感情的な面がないわけではないのですが。

たまに、誰彼構わず怒り散らしている人を見かけますが、そういう人って、自分の想い通りにならないことが気に食わないのでしょうか。それとも、自分が相手より優位に立っているという優越感に浸ってるだけなのでしょうか。世の中思い通りに行くことの方が少ないと思っているので、私は、なんでも自分の思い通りになると思っている人の思考は理解できかねます。

改めて感情について考えると、豊かな人が少し羨ましくなりますね。私は、感情表現は乏しいので。薬の影響もあるのでしょうか。それとも、元々の性質なだけなのでしょうか。未だに判別がつかないのです。ただ、表向き明るく振舞えることは増えましたし、思考も前向きになりつつ、ある、はず。自覚してないだけで、少しずつ「大人」になっているのかもしれません。いつまでも、子供気分でもいられませんしね。

怒るといえば、怒った時の態度って、結構色んな種類がありますよね。私は、自分はずっと怒ると癇癪を起こして感情のままに怒鳴り散らす人間だと思っていたのですが、腹の底が冷えるような感覚があって、相手のことを心から嫌いになるような、逆に冷静になったような、そんな気持ちになったことがあります。あれ、なんなんですかね。怒りが一周しちゃったんですかね。あの時の感覚は、今でも思い出せるぐらい鮮明です。

あの感覚を、できるならばもう二度とは体験したくないので、私を怒らせる出来事がないことを祈るばかりです。まあ、私、別に怒ってもそんなに怖くないし、逆に笑われるほど滑稽なので、そういう意味でも怒りたくはないんですけどね。

癖の話

誰しも、「癖」というものはあると思います。髪の毛に触ってしまう、貧乏ゆすり、指で机をトントンと叩く、などなど。無意識にやってしまうそれは、時に不安だったり退屈な気持ちを和らげるため、時に自分の気持ちを隠すため、人によってやる意味が違うと思います。

さて、前置きはこれぐらいにして。私はある意味「癖」まみれの人間なのですが、自分で自覚している癖で一番酷いものは「独り言」です。これは本当に昔から、自覚し始めたのは確か中学の頃だったと思います。勉強をしている時に、親に「独り言やめろ」と言われて、初めて自分が声に出して自分の思考を漏らしていたことを知りました。それから、今でもやめられずにいます。思考を整理するためという意味合いが強いのですが、ついつい出てしまうこともたくさんあったり。脳内で考え事をしている時に、ツッコミがつい口に出てしまったり。

その延長上かどうかはわからないのですが、人間以外に話しかけてしまう癖があります。犬や猫だけではなく、虫、食器、メガネ、電化製品など多岐に渡ります。自分で書いてて、頭おかしいなと思ってます。しかも、声をかける際に「君」「お前」だけでなく、「お兄さん」「お姉さん」と、何故か性別をつけてしまう。特に意味はないのですが。動かなくなったリモコンに向かって「お兄さんしっかりして!」と言ったり。傍から見るとかなりやばい人ですよね…。直したいと思っても直せずにいます。

ネットで調べると、ストレス発散だの不安を抱えているだの、ネガティヴなものが沢山出てきます。でも考えてみると、ポジティヴな人は独り言を言ったりしないイメージがあります。こういうイメージに引っ張られるのもどうなんだという気はしますが。確かに、一人でいることの寂しさからくるのかもしれないなと思ったりするのですが、それなら中学時代から独り言を呟いている理由にはならないような気がします。中学のころから孤独を抱えていた、なんて闇の深い案件なら話は別なのですが、中学時代は私の全盛期といっても過言でない時期だったので、その可能性は除外します。

思考の整理を頭の中だけでするのが得意じゃなくて、その結果、他の要素を利用して整理しようとしていただけなのかもしれませんね。こう考えると、ワーキングメモリの小ささを改めて自覚します。ということは、ワーキングメモリを鍛えれば、独り言の頻度も減るのでしょうか。鍛えるべきか…。もしくは、頭の中に溢れてパンクしそうな思考を、口に出すことでパンクさせずに済んでいるのかもしれません。パンクしても独り言が出てしまいますが。

現在、自分以外で独り言を呟く癖がある人は一人しか知らないので、あまり多い癖ではないのかな?と思ったり。他の人に迷惑がかかるので抑えている人が多そうな気もしますが。というかバイト先の人がそうなせいで、二人分の独り言が溢れたりすることがあったり。とんでもない状況ですね。

もし良い対処法があれば教えてほしいぐらいなのですが、実際自制以外にあるんですかね?わからないです。

夏の話

こんにちは、もう夏真っ盛りですね。というか夏休みですね。いよいよ明日からは八月です。早いですね。長期休みに入ると、一層自堕落な生活を送るようになってしまうので、気を付けたいところです。

私は暑いのは好きじゃないですが、季節で一番好きなのは夏です。世界がキラキラして見えて、鮮やかで、綺麗で。全部が生き生きして見えるから、一種の憧れのようなものを抱いているのかもしれません。一瞬の煌めきの美しさと切なさを包括しているのもあるのかもしれないです。特に、学生の体育会系の部活動って、夏の時期に終わるものが多いですからね。特に今年は平成最後の夏ですし、より一層キラキラしているのかもしれません。そう思うと、「最後」って言葉はすごいですね。人の心を動かす、謎の魔力でも秘めてるのかも。

さて、夏のロマンに想いを馳せたところで。私の長期休みの目標は「ポジティブ、知識、行動」です。ポジティブシンキングを心掛ける、知識を少しでも身につけるために本を読む、引きこもってないで少しは外に出る、です。というか外の写真を撮りに行きたい。あとプールにも行きたい。今年の夏も、一人で充実させることを目指しています。そう考えると、私の最大の問題の一つである「社交性」をどうしたらいいのか、というのが新たな課題になりそうですかね。でもこれだけは、どうしたらいいのかわからないので、本当にどうしよう…。

夏と言えば。夏の恋は一夜の恋というイメージが強いのは、そんな歌がたくさん流れているせいですかね。真夏の夜のワンナイトラブ的な。自分でも何言ってるかわかんないですけど。道を歩いているカップルがどことなく大胆な風に見えるのも、夏のせいだったりしませんかね?羨ましくはないですけど微笑ましくもないです。本当です。

恋愛かあ。今の私には縁遠い言葉ですかね。いや、片想いはしてますけど。夏のせいにできるほど、大胆でも無計画でもないので、やっぱり無理ですかね。最近は拗らせて重症化しているのか、「可愛い」と思うことが増えました。可愛いまでいくともうかなりやばいんだってことは重々承知しているのですが、この段階まできてしまいました。熱しやすく冷めやすい性格なので、ほとぼりが冷めるのを待っていたのですが、まだまだ熱を帯びたままのようです。

 

とにもかくにも、平成最後の夏、楽しんでいきたいですね!そして、自分ともっとちゃんと向き合いたいと思います。

自分を好きになること

高校ぐらいの時からずっと、私は私の事がそんなに好きじゃなかったです。というか、嫌いと言っても差し支えないぐらいでした。誰かに言われた、「有言不実行」という言葉がぴったりと当てはまる自分が、気分の浮き沈みが激しくて、愛想も振り蒔けない自分が、嫌いでした。去年一年間が、一番自分の事が嫌いだったかもしれない。

そんな私が、今、自分を好きになろうとしているのです。きっかけは些細なことで、いつも通り「私はダメな奴だなあ」と思いながら過ごしていたら、ふと、「でも、こんなに自分のこと責める必要ある?」という言葉が浮かんだのです。必要以上に自分のことを責めているんじゃないか、というか、絶対そう。一度そう思うと、「私って、もしかして、自分が思ってる以上に自分の事嫌いになってる?」と、疑問が浮かびました。これほどまでに卑屈になる理由はなんだ?と、延々と自問自答して、「できないやつ」だから、「社会から外れてるから」、「人付き合いができなさすぎるから」、などと色々考えてみたんです。でも、本当に正直に言うと、私ってそこまで性格悪いわけじゃないと思ってるんですよ。下手くそなりに気を配ったり、優しくしてみたりしてるんです。その努力まで否定する必要は果たしてあるのか?と、また疑問。いつかバイト先の先輩が言った、「自分の事は自分しか褒めてくれない」という言葉を思い出し。確かに、感謝はすれど褒めたりはあんまりしない。私はもしかして、自分を褒めてくれる人を蔑ろにしているのではないか。そう思うと、失礼な気がしてきた。そう、私は私をここまで嫌いになる必要なんてなかった。

自己愛は悪いものだと、どこかで考えていた節がありました。自分のことを愛する、好きになることに、なんとなく罪悪感にも似た、後ろめたい感情を抱いていたのです。でも、よく考えなくても、自分のことを嫌いな人より好きな人の方が魅力的だし、周りへの対応もまた違う。これは、フロイトの「愛するということ」を読んだ影響もあるのかもしれませんが、自己愛とナルシシズムは違う、という説明を見た瞬間、なるほど、と思いましたし、改めて、私は私を好きでも何の問題もないし、寧ろ好きであった方が良いのでは?と考えるようになりました。

そして、この考えに至った理由がもうひとつ。とある人に言われた、「自分を嫌いな人が他人に好かれるわけがない」という言葉です。「自分を嫌いな人が他人を好きになるわけがない」という言葉は聞いたことあったんですが、「好かれるわけがない」は、私はあまり聞かなかったので(ありふれた言葉かもしれませんが)、衝撃を受けました。面と向かって言われたから、なおさら衝撃的だったのかもしれません。きっと今私のことを好きになっている人たちは、きっと私が私を好きだったころに好きになってくれたのかな、なんて変なことを考えたり。それとも、今の私に、少しでも自分を好きな部分が残っているということかな。

とにもかくにも、私は、私を好きになってくれた人たちに恥じない人間でいたい。だから、自分のことを、好きになるまではいかなくても、嫌いになることはもうやめます。ネガティブなのはもう根っこに染みついているものだから、ゆっくりと直していけたらいいなぁ。完全に長期戦前提ですが、まあそれも仕方ない。

面倒なことは嫌いです

私たちが生きてる世界は、たくさんの「面倒事」に溢れています。人はみんな、そんな面倒事から逃げたり、立ち向かったり、受け入れたりしながら日々を生きているんだと思います。私はというと、高校時代の口癖が「面倒くさい」だったほどの面倒くさがり屋でした。というか、今現在進行形で面倒くさがりです。朝、早起きするのが面倒くさい、学校の宿題をするのが面倒くさい、勉強するのが、運動するのが、会話が、人間関係が。どんどん「面倒くさい」気持ちが積み重なっていって、行きついた先はうつ状態でしたが。生きることが面倒で、でも死ぬのも面倒で、何もかもが面倒くさくて、ただ布団の上でゴロゴロして、夜になったらシャワーを浴びて寝る、そんな生活を繰り返したこともありました。本当に面倒くさがりならシャワーすら浴びないのかもしれないんですが、ちょっと潔癖の気があるので、体を綺麗にすることは最低限、欠かさずしていました。それでも、人間らしさなんて微塵もなかった。今も、充実している人からしてみたら人間らしくはないのかもしれないんですけど。

性格というものは簡単に変わるものではないのですが、今は「面倒くせ~」と言いながら実行してる感じです(前もそうだったけど)。ここ一、二年で気づいたんですが、私って結構M気質らしく、自分を責めながら日々生きているので、面倒事も案外苦になってないのかもしれない。いや、そんなことはないか…。ただ、今でも面倒で仕方がないことがあります。それは、人間関係です。深く狭くを信条にして生きてはいるのですが、やっぱり社会を生きる上で最低限の浅い付き合いもしなければならないということなんですよね。前にも書きましたが、キャパシティが少ないのにエネルギー消費が大きい人間なので、あんまり知り合いを増やしたくない。というか、顔を覚えるのは割と得意なんですが、名前が覚えられない。文字で見れば覚えられるんですけどね。少なからず一人の時間が欲しい、というよりは、たまには誰かと会って話したり遊んだりしたいなあと思うぐらいで、基本は一人が好きです。一人だと面倒なことがぐんと減るので。中学時代に「面倒だから」と遊ぶのを断ったこともあります。我ながらクズなのでは…。面倒事が嫌いな割に、人からの視線や感情に敏感だったり気にしたりするところが、まあなんとも突き抜けきれてないというか。

人の感情の波って難しいですよね。自分ですらコントロールしたり予測したりするのが難しい時があるのに、他人のそれを考慮しろなんて到底難しすぎる。それを面倒だと思っても仕方ないんじゃないですかね、と言ってみる。それをあからさまに表に出すことはしないようにしてます。まあ、基本不愛想で「何考えてるかわからない」と言われたりするので、あまり心配はしていませんが。

今私が直面している「面倒事」はレポート課題です。締め切りが近い。そして多い。手つかずのままのも多い。何日徹夜する気なんですかね私。単位だけは落とさないようにしたいです。本当に。

さー、がんばるぞー。