なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

自分の中の正義

どうも、のなめです。気づけば夏の終わりを感じる今日この頃です。

皆さんの中には『信じるもの』はありますか。皆さんの中に『正義』は存在しますか?

自分が貫き通したいこと、正しいと思ったこと。揺らぐこともあるかもしれないけれど、一本芯が在るもの。最近の私のテーマは、『自分の中の正義に従う』です。

正義なんて、それこそ人それぞれ。誰かの正義は誰かの悪である、とよく言います。だからこそ、貫きたいと思ったんです。誰かに流されるのではなく、自分の足でしっかり地面に立ちたいと思って、この記事を今書いています。言わば決意表明です。

……と言っても、正義がどんなものなのか、自分でも良くわかっていないんですよね。「自分が正しいと思ったこと」だなんてそれこそ漠然としているし、犯罪やモラル・マナーに反しない姿勢でいる、ということは大前提として生きているし……。

あえて言葉として書くのなら、「自分がその行為を見たとき、行おうとしたとき、自分の中で納得するか・疑問が浮かばないか」どうかかな、という気がしています。正しいかどうかわからずに首を捻って、疑問に思いながら実行する……手探り状態、ということはよくあることだと思います。その疑問を少しでも振り払って、真っ直ぐ突き進みたい。愚直であったり無謀であったりするかもしれない。泥臭いと嗤われるかもしれない。それでも、真っ直ぐ進みたい。こういうことを書くと大抵、真っ直ぐでありたいと言ってばかりなので、どれほど根がひん曲がっているのかが窺えますね……。

スマートで格好いい生き方の方が好ましいのかもしれないけれど、残念ながら私はその生き方はできないので、ひたすら泥臭く生きるしかないんですよね。這いつくばって、蛇行して、止まって、それでも目的地を目指して進む。そんな生き方が、私の中の『正義』になり得るのかもしれないです。

目的地の設定をしていないのが致命的なんですけど、それはまあ、おいおい。これからの人生で決めていけたら良いなと思っています。死ぬまでには決めたいですよね。

話が逸れました。

もう一つ、私の中の『正義』って、「自分が納得するか」もだけど、「頑張れるか」も大事だと思うんですよ。頑張れない正義ってなにって感じですけど。頑張って、正しく在れるか。正しさのレベル、水準が自分に合っているか。ダイエットとか勉強と一緒だと思います。自分の身の丈に合った正義じゃないと、身を亡ぼすだけだと思うので。

直近の私の『正義』は、「誰かじゃなくて自分がやる」です。「誰かがやってくれるだろう」という他人任せな部分を捨てて、自分で実行できるようになる、実行する。それが例え余計なお世話でも、お節介でも、自分が正しいと思ったらやる、です。だって、誰かの一瞬の評価よりも、自分の評価が上がった方が、精神衛生上良いじゃないですか。自己認知の一環にもなるし、偽善でも善ですし。

他人の視点に立つことも大切だし、それで空気を読んだり遠慮することも必要かもしれない。けれど、それって私にとってはとても窮屈でダメなんですよね。だったら、『正義』って免罪符を作っちゃえと思って。打算です。でも、それでいいかなって。

ちょっとだけ前向きになれるじゃないですか。これでいいんだって。そういうことも後日書けたら良いなと思います。自己肯定の話。

とりあえず、明日も自分の正義に従いつつ怠惰に生きます。