なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

ダメな私でもいいじゃないか

Twitterで『自己肯定感』の話が以前ちょっと話題になってましたね。

メンタルがアレな人間としては、言及せざるを得ないかな、と思いまして。

そもそも自己〇〇感、みたいな言葉が結構あるので、その違いがわかりにくかったりしますよね。正直私もわからないです。

でも、自己肯定感っていうのは実際「このままの自分でいい」と思うこと、であって、「自分を愛すること」とはまた別だと思うんですよね。自己愛、ですかね。

「このままの自分でいい」と思えない人は、自己否定と自己嫌悪に悩まされながら生きているんですよ。「このままの自分じゃダメだ、こんな自分は嫌だ、でも変われない、どうしたらいいんだろう」と考えてしまうし、そんな自分を好きになることができるはずもなく。自己肯定と自己愛は別物ですけど、連動はしてると思います。

私も以前、ダメな自分が嫌で仕方なかったし、普通じゃない自分を変えたかったし、このままの自分じゃ何も進めないと思っていました。でも実際は、「ダメな自分のままじゃなにも進めない、と考えるから進めない」んです。「ダメだ」と思う気持ちが停滞を生んで、二の足を踏んでしまって、雁字搦めになって進めなくなってしまう。「このままじゃ進めない」と考えてしまうから進めない。

だから、もういっそ開き直ってしまうのが一番だと思います。「ダメな私でいい」「このまま進めばいい」「私は私以外にはなれない」。当たり前に考えられることを、当たり前だと思う必要があるんです。私は特別にはなれないけれど、私は「私」という特別だと思ってしまえば良いんです。世間や社会のニーズではなく、自分自身がどう思いたいか、どう在りたいか。それを考えなければ、きっと前には進めません。

こんなことを偉そうに書いておいて、自分はどうなんだ、って感じなんですけど。「ダメな私でもいい」と考えると同時に「私にもできることがある」と考えるんです。「ダメ」なことを認めて、その上で自分の長所を考えます。人と比べるんじゃなくて、自分の唯一を探します。誰かと比べることをしてしまうのは痛いほどわかります。でも、それはとてもしんどいことです。世間に認めてもらうことを考えてしまうことも、わかります。けれど、精神をすり減らして、嫌な思いをするぐらいなら、そんなものは捨ててしまった方が楽です。

社会との繋がりを断つんじゃなくて、社会のニーズや求めるものを無視するんです。そんなもの知った事じゃないって言ってやるんです。私が求めるものが社会にあるのかを探すんです。こんな生き方、正直正気の沙汰ではないというか、見捨てられるような生き方であることは理解しているつもりです。けれど、社会に合わせて死ぬぐらいなら、社会を私に合わせようとしたいです。これもきっと、肯定感の一部になると思うので。

せっかくまた「周りと同じじゃつまらない」という考えが台頭してきているなら、それぞれの「唯一」を突き詰める方が面白いじゃないですか。日本という内向きの国では少ししんどいかもしれないですけど。自分を殺すか、生かすか。どちらを選んでも、人の自由です。

まあ、私は自分の生にあまり執着がないし、死ぬときは死ぬだろうって考えなのでこんな生き方ができるんでしょうね。それでも不安な時はありますが。

というか、ADHDなら、こっちの生き方を選ばないと、しんどいことが多いんじゃないかなって思うんです。周りに迎合できない、けれど唯一にもなれない。中途半端な生き方をするぐらいなら、どちらかに振り切った方が、私は心が楽になります。それで100人に嫌われても、私を好いてくれる10人がいれば(10人もいるかは知らないけれど)それでいいです。守るものがないから、こんなことを言えるんでしょうね。

ダメな私で今日も生きていきます。明日も生きます。死ぬまで生きます。それでいいです。