なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

いつ死んでも良い

どうも、のなめです。もうすっかり秋めいてきました。再来月には雪が降るんでしょうね。今から冬季うつが心配です…。

 

さて、今回は、私の死生観というか、希死念慮に近い話をまたしてみようかなと思います。何故か私のブログでの閲覧回数が多い記事のようで、共感してくれる人がいるのかなと思ったり思わなかったり。

人の寿命や死ぬタイミングって、いつなのかわからないじゃないですか。もしかしたら明日交通事故に遭って死ぬかもしれないし、謎の病気で余命僅かになるかもしれない。数十秒後に死ぬのか、数十年後に死ぬのか、わかる人間なんて多くは無いはずです。

私は中高生の頃に、よく自分が『大病を患う』ことや『下半身不随になる』、『交通事故に遭って生死を彷徨う』ことを考えることがありました。不謹慎ですが、妄想です。そうなったら、私はどうする? どうなる? そう考えることが、よくありました。

それを考えてどうするんだ、というと、死を想うんです。死とはどのようなものなのか、生きながら死んでいるということはどういう状況なのか、死ぬのと生きるのと、どちらがいいのか。生命倫理ですかね? 漠然とそれらを考えることが多かったです。

余命僅かであったり、植物状態に陥るぐらいなら、投薬や延命はせず死期を待ちます。不随になったら生きます。私の中の基準は『意識があり、自分で選択できるかどうか』なんだろうな、と。

私の死への考え方は至ってシンプルだと思っています。『死ぬときは死ぬ』。死ぬならあっさり死んでやろうと思います。足掻くぐらいなら、綺麗に死にたい。臓器も綺麗に残して、誰かに渡せる状態で死にたい。そう思います。あくまで私の考えですし、世の中そう綺麗に生きられないことは嫌というほど知っているので、現実問題上手くいかないのはわかっているんですけど。

 

同時に、『いつ死んでも良いな』と考えることがあります。今は大学へ行ってて、来年は就活で、親も友達もいて、それなりに充実していて。未来も、まあ夢を描けるほどにやりたいことがあって。

それでも、やっぱり『いつ死んでも良いな』って思うんです。親や友達には長生きしてほしいと思うんですけど、私はいつ死んでも良いなって思います。これも多分希死念慮。死は恐怖ではなく、自然のもの。誰もが必ず迎えるもの。明日思い立って自殺を図っても、数年後不幸に遭って死を迎えても、その時はその時だ。死ぬときは死ぬんだから、どうしようもない。だから、いつ死んでも良い。いつ死んでも良いように生きる。

未練を残して死ぬぐらいなら、やりきって死ぬ。いつ死んでも良いように生きる。それが今の私の生き方です。だから、自分の意見を貫き通したいし、綺麗に生きたいし、いつでも優しく在りたいし、真っ直ぐを求めて歪んでいたい。この考えに至るまで紆余曲折ありましたし、これからも変わる可能性は十分ありますけど。

どうか、後悔だけはないように。