なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

生きることは当たり前?

どうも、のなめです。最近は調子がいいです。薬をちゃんと飲んでいるおかげなのか。

忙しくてバタバタしていたんですけど。やっとこさひと段落ついてのんびりできる期間に移行したので、掃除とか読書とかゲームとか、自分がしたいことができたら良いなあという感じです。

もう三月ですか、やっぱり早いなあ。しかももう中ごろに差し掛かってくるんですね。日々が過ぎるのがマッハスピードすぎてやばいです。このぶんだとすぐ死ぬな。

生きることはどういうことなんだろう、とふと考えたとき、「人間として社会的な営みを行う」ことなのか「生物として生命活動を維持する」ことなのか、それとも道徳的な意味合いなのか…などなど、様々な解釈が可能だなあと思ってしまいます。

よく、植物状態やベッドに寝た切りの状態で延命治療をするとか、寿命を延ばすとか、生命倫理における問題を目にします。安楽死とかも、それの一つですよね。

私の生死観はドライめだということを踏まえても、長生きの何が偉いのかとか、生きることの何が偉いのかとか、そもそも偉いのかとか。死の先には何もないとか、生きていれば先があるんだろうとか。私は死の先に何もないならそれでいいし、生きてる先に何かがあるなら見てみたい気もする。ただ生きた先に何かあるか、それとも何もないのかわからないのに対して、死の先には何もないってことが確定してるじゃないですか。だって誰も知らないから。知らないことはないことと同義だと思っています。死を恐れる人はそれが怖いのかな…とか。

「知らない」ことは怖いことです。私も数年前までゴキブリがどんな姿かたちか直で見たことがなかったので、実際自分の眼で見るまで「姿かたちをよく知らないゴキブリ」が怖かったりしました。自分の無知を認めることってすごい大事だと思うんですよね。話の筋とは関係ないですけど。

生死は表裏一体で、死なない限り生き続けるし、死んでしまえば生きることはできない。当たり前じゃん、という感じですけど正直どれだけの人がこの「当たり前」を認識しているのか、どれだけの価値があるのかわからないんじゃないんですかね。だって生きることは「当たり前」で、あまりにも身近すぎるから。

私にとっては「死にたい」と思うことは身近で、ある意味「当たり前」なことなんですよ。でも人によっては「死にたいなんて信じられない!」って思うじゃないですか。死が身近にないんですよ。鬱や病気への理解のなさは、その人にとって縁遠いからなんですよね、きっと。

生きることが当たり前なんて、笑っちゃいますよね。人間としての営みを行うことも、生物としての生命維持活動も、私たちにとっては当たり前で、とても身近なこと。でもちょっと離れてみてみれば、生きることは当たり前じゃなくて、とてつもなく難しくて尊いもの。なんでなんでしょう。生きることが偉くて死ぬことが偉くない理由はなんでしょうか。生きることは続けることで死ぬことは終わることだから? 今の私には到底答えが見つかりそうにないのでちょっとやめます。

生きることは当たり前のことじゃない、としばらく心に留めて生きてみようと思います。そうしたら、少し見えるものが変わる気がするので。よければ一緒に「生きることは当たり前じゃない」と思いながら過ごしてみませんか? なんて。尊いのか、辛いことなのか、難しいのか、それとも別の何かなのか、考えてみたいです。