なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

今年もまた生きてしまった

 どうも、今月が誕生日だったのなめです。

 Twitterアカウントが丁度4年経ったらしいです。見返せば見返すほどロクな事を呟いていないなと思うんですけど、私の考えや情緒を曝け出しているのはあのアカウントだけなので、当時どんな感情だったのかがわかりやすいのは良いなと思ったり。

 成人を迎えて以降は、「今年もまた1年、生き延びたな」と思うようになりました。私の中の希死念慮がそう呟いているんです。

 自分の体を故意に傷つけない。これは私が自分の中で決めた、自分との約束事です。包丁を見つめて自分を切りつけたいと思うことは幾度とありました。けれど、そんなことをしても誰も救われないし、本気で死にたいなら別の手段にするべきだと思ったから、実行には移さなかったです。

 誕生日を迎えて年を一つ重ねるごとに、死から遠ざかっていく感覚があります。1年生きるということは、1年寿命が延びるということ。死ななかったということ。私にとって誕生日を迎えることは、死からの逃亡に近しいのかもしれません。何を言ってるかわからないと思うんですけど、感覚的な話なのでちょっと説明が難しい。自分の意思で死ぬのではなく、寿命で死ぬ方を選び続けているというか。

 死は常に私の近くにいます。油断すると迎えに来てしまう。けれど、精神力と理性で死の誘惑を振り切って、生きていくんです。

 なんのために生きているのか、を考えるたび、そんな大義名分は要らないのだろうなと思います。昔は必要だったし、今もある程度必要だけど、そんなに重く考える必要はないというか。

 私が今生きている理由は「親の葬式で喪主をするため」なんですけど、じゃあ喪主をし終わった後は? と考えると、何も思い浮かびません。でも、両親の後をすぐ追ったら多分しこたま怒られるんだろうな、とか、考えないこともないです。私の両親は長生きしたいみたいなので、ちゃんと寿命まで見送れたらいいなと思う一方で、私が力尽きないかが少し不安だったり。

 でも、生きる理由なんて何個あっても良いと思うんですよね。美味しいものを食べたいから、とか、新作ゲームがしたいから、とか、漫画の最終回を読みたいから、とか。そういう「ちょっとした理由」を集めて、私は今日も生きていくんだと思うんです。

 ……まあ、「生きてしまった」事に対して、後ろめたさや後悔を抱くことなんてないんですけどね。私が生きていて迷惑なことはない、はず。そんなに誰かに影響を与えるような人生を送ってはいないけれど。それはそうとして希死念慮とはげに恐ろしき。ふとした瞬間に死にたくなるのだから、抗いようがなくて困ります。そういう時はやり過ごすのが一番で、ただ死にたい気持ちが落ち着くのを待つばかり。

 今も少し、死にたいというか、どこかへ行ってしまいたい気持ちがありますが。それでも、明日も明後日も、私はここで生きるしかないんですよね。