なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

生きたい、死にたい

 著名な人たちの訃報を聞く度、胸が痛くなります。自分からは遠い生き物だと思っていても実はそんなことはなく、ただの一人のひとだったんだと、強く実感させられます。

 

 自殺、という単語を聞くたびに、この世になにか思うことがあったんだろうな、とか、耐えきれなかったんだろうな、とか。考えてしまうことが多いです。自分の意思でこの世からいなくなる選択肢は、言ってしまえば究極的な逃避だと思います。自分がいなくなる手段を選ぶしかないほど、追い詰められていたのかと思うと、遣る瀬無い気持ちになります。

 私は、とりあえず親がこの世を去るまでは、この世に留まるつもりでいます。けれど、世の中には両親よりも早く死んでしまう人は少なくない。それも、その人の選択の一つであって、私や誰かがどうこう言えるようなものではありません。

 誰もが幸せになれる世界、が夢物語のそれであることを嫌でも自覚しています。けれど、生きたい人が生き、死にたい人が死に、死にたくない人が死なない世の中であればいいのにな、と思わずにはいられません。死にたくない人が、生きることよりも逃げることを選択した時の絶望感は、どれほどのものなんでしょうか。私の想像を遥かに超えると思います。

 私は、死にたいな、という気持ちを常から抱えています。けれど、死ぬことを実行したことはありません。私が死ぬのは、恐らくあと何十年か後のことですし、今すぐではないです。でも、もしかしたら明日、すごくすごく死にたくなって、どこかでひっそり自殺をしてしまうかもしれません。理由なんて、あってないようなものです。強いて言うなら、この世にいるのが辛いから、ですかね。

 私は、死にたいから死ぬ人に「死ぬな」と言うことはできません。本人が本当に望んでいることならば、させてあげたいと思うから。けれど、死にたくないのに死ぬ選択をした人に対しては、「死ぬな」と言ってしまうと思います。死にたくないということは、生きていたいということだと思うから。でも、本当に死にたいのか、生きたいのかは、他人である自分にはわかりません。人間は嘘を吐く生き物だから、死にたくないのに死にたいと思い込んでしまうこともあると思います。

 死ぬことは辛いと思います。生きることも、辛いと思います。どちらを選択しても辛いのに、どちらかを選ばなければいけない。この世のなんと残酷なことか。平生「生きるのが楽しい! 幸せだ!」という風に振舞っている人でさえ、いつかは死に絶えます。それは何十年後に寿命でかも知れないし、数日後に事故や他殺、自殺でかもしれない。

 考えが上手くまとまらないのですが、私がこの世に望むことは、生きたい人、死にたくない人が生きられる世の中になると同時に、死にたい人が死ねるようになればいいなと思います。

 それと、人を死へ追いやることのないような仕組みができたらいいな、とも。人は案外簡単に死んでしまうから。精神的な傷を見つけるのは結構難しいのに、傷ついた人はあっさり死んでしまう。傷つけた人は、まさか自分が、と思うでしょう。そうとすら思わないのかな。肉体的な傷と違って、精神的な傷は、傷つけた人は気づかないことが多すぎる。人が人を傷つけないのが一番なんですけど、そんなことは無理なので。

 私はどうだろう。深い人付き合いよりも、浅い方が却って傷つけてしまっていることもあるのかもしれない。コミュニケーションはあまり考える余地がないのが困りますね。シンキングタイムがほしい。

 みなさんは、生きたいですか、死にたいですか。それぞれが思うような結末へ辿り着けるようになればいいなと、心から願っています。