なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

死にた過ぎて困る!

 どうも、のなめです。今回は少し深刻な話をしたいと思います。ちょっと強い言葉を使うかもしれないので、追記に載せます。よろしければお付き合いください。

 毎日死にたい。それはもう大小さまざまな「死にたい」を脳みその中を行き来しています。些細なきっかけから日々の積み重ねまで様々な「死にたい理由」が浮かんでは消え、消えては浮かびの繰り返しです。

 私が強く「死にたい」と思う時は大抵、自分の無能さを実感した時だと思います。今はまさにそれが顕著で、自分の思考力の浅さ、不器用さ、能力の低さ、人間性、諸々を鑑みて、生きている意味がないな、なんて考えてしまうのです。この考えは、自分の理想のハードルの高さから来るものだという自覚はあります。自分の潜在能力が高いのだと思い込みたいが故のもの。ある意味自尊心と自己愛の証拠のような。

 逆に、弱く「死にたい」時に思うことは、人生から逃げたい、責任も重圧もなく自由になりたい、ということです。責任のある役職や人の上に立つことに興味が無いのは、興味が無いのではなく、責任を負うことが怖いからです。他人の目が私という人間をどう映すのか、即ちどう評価するのか、を考えることが怖いのです。

 自分の二次障害である社交不安障害が関係しているのだと思います。人前で喋ることが怖い。他人にどう思われているのか不安で、知らぬ間に恥ずかしいことをしているんじゃないかとか、そういうことを考えてしまっています。「他人は思っているより自分のことなんて気にしていない」ということを頭では理解していても、概念として受け入れていても、怖いのです。

 実際、日常生活では気にしないように努めています。本来は性格上、他人の評価を気にする人間でもないのです。自分は自分だし、他人は他人で。だから双方の意見や思想が違っているのは当たり前だし、その上で相手が私を悪く思っているなら、それはそれで構わないのです。

 でも、それが『評価が自分の人生の成果に直結すること』であれば話は別です。例えば、テストや面接などがそれに当てはまります。テストは自分の能力を相手に示すものです。面接は自分の人柄や思考、社交性を見せるものです。それらにはある程度の基準が存在して、基準以上であれば「合格」、以下であれば「失格」となります。「失格」は「失敗」と同じです。私は、失敗することが怖いんです。

 失敗しない人間なんていないし、トライ&エラーを繰り返して成長をするのだということは百も承知です。私だって今までの人生でたくさんの失敗をしました。その度に死にたくなって、逃げたくなっていました。普通の人が次に向かって努力をして成功体験を得ている間、私は失敗に引きずられて、ただただ自らを責めていました。それの繰り返しをして、今日に至ります。

 幸いなことに、私の理性はとても強靭で、精神がズタボロになろうと保とうとする力があるようです。私の生は理性によって繋がれています。それでもやっぱり死にたくて、何か強いきっかけがあれば死んでしまうんじゃないかってぐらいに。

 自分の生に意味はあるのか、私の存在に価値はあるのか、誰かに必要とされているのか、愛されているのか。私の中に答えがあるはずなのに、全てが霧のようなのです。目の当たりにできない解答を、必死に探しているような。あるいは、見つけているはずなのに、目を逸らしているような。そんな感覚がしています。

 死にたい。できることなら、明日にでも。どこか遠い場所で、誰にも知られず、ひっそりと。死にたいと思うことは、旅をしたいと思う気持ちに似ています。どこか遠くの、知らない景色に会いに行きたい。誰も私を知らないまま、私という存在を確立させるくらいに、自分の意識と向き合える場所に、行きたい。

 死ぬ勇気も努力もできないことは、自分が一番よくわかっています。努力をしたら疲れてしまう脳みそと身体を持っているので。私が死ぬ努力をするときは、恐らく一世一代のものなのだろうという気がしています。努力をしたら疲れてしまう脳みそと身体を持っているから辛いのに、死ぬのでさえ努力が必要なのだという残酷さ。

 明日も明後日も、来週だって死にたい気持ちを抱えて生きていくのだと思います。毎日死にたくて、毎日生きて。日常を過ごした私の手の中に残るものは一体何なのだろう。目に見える結果なんて一つも出せていないのに、私に何ができるんだろう。この年になってもアイデンティティが確立できていない無様っぷりに笑えます。

 『困る』という言葉には、「ある物事をどう判断・処理してよいかわからず悩む」「つらいことにあって苦しむ」という意味があるらしいです(goo辞書参照)。まさに「死にた過ぎて困る」ですね。私はどうしたらいいのだろうか。自分で見つけなければ意味がない気もするけれど、そんな気力が果たしてあるのか。

 

 頭と心で考えが直結しないところに人間の複雑さを感じます。まあ、心は頭にあるらしいんですけど。ちぐはぐで矛盾まみれなまま、困っていようと思います。