なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

いつ、生きたくなるだろう

※いつも以上にジメジメしてます。死にたさが強いときに書いているので閲覧の際はご注意ください。

 

 

 死にたい。毎日毎日、なにかしらの時間で思うのです。朝起きて歯を磨いているとき、支度を終えて家を出るとき、仕事をしているとき、お昼ご飯を食べているとき、定時になって帰るとき、帰ってご飯を食べるとき、シャワーを浴びるとき、ベッドに潜るとき。

 なにかの呪いなんじゃないかってぐらい、『死にたい』という、簡単で強すぎる一言が頭を過っていきます。びっくりするほどカジュアルに。

「ああ、お腹空いたな。死にたいな」

「次はこれをやろう、死にたいな」

「寝よう、死にたいな」

 『死にたい』の言葉が崩壊してしまうんじゃないかってぐらい、『死にたい』の価値がどんどん下がっているんじゃないかってぐらい。実際そうなのかもしれない。

 希死念慮と毎日仲良くやっていたつもりなんですが、気づけば思考が支配されてしまうことに怖くなりました。いつか自殺念慮になってしまうんじゃないか、自殺計画を立ててしまうんじゃないかと考えてしまう自分がいます。

 病院へ行け、と言われたら恐らくそうなんだろうなと思います。

 でも、普段通りの生活はできているし、仕事もこなせているし、料理も洗濯もできる。掃除は相変わらずですが。ご飯は美味しいし、映像を観て笑うこともできる。

 いつもよりずっと『生きている』のに、どうしてこんな思考に至っているのか全く分からないのです。

 そもそも、どうして死にたいのか。いつかの私は『死にたいことに理由はない』と言いました。『強いて言えば、疲れたから』とも言いました。

 今はどうなんでしょうか。たしかに、死にたい特別な理由はないです。この社会で生きていくのがしんどいから、疲れるから死にたいというのも事実かもしれません。働くの向いてないなあとか、ちゃんと擬態できてるかなあとか、考えてしまうこともあります。

 

 最近、自分の価値について考えます。私の価値とはなんだろう。私が私である以上、それだけで価値がある。そうは言っても、社会的な価値で見れば話は別です。

 仕事ができる・社会に貢献できる・人間的に振る舞い、集団に溶け込むことができる。

 人間社会は集団の社会です。集団に所属することでアイデンティティが生まれ、保たれます。

 私のアイデンティティは、『のなめ家』の一員であること。株式会社〇〇の社員として働いていること。そして、『のなめななし』として生きていること。主にこの三つで構成されています。

 『自立とは、依存先が多いことだ』という、とある記事にあった言葉を今でも強く憶えています。自立というのは、実は、沢山の人、社会、コミュニティに少しずつ依存していて、依存先を増やすことで依存度を浅くする=自立しているように見える、というものです。

 私も、身体は健常者となんら変わりはないので依存先が多いのかもしれません。でもそれはあくまで社会的な話で、個人や人間関係の話はまた別です。

 上記の記事を書いた方は身体障害者ですが、精神障害者発達障害者にも同じことが言えるのではないかと思っています。依存先が少ないから、一つ一つの依存度が深くなっていて、失ったときの弊害が大きくなってしまう。

 依存先と聞いて真っ先に浮かんだのは母でした。それから、親友でした。それ以外は、浮かびませんでした。

 両手で数える程度しか友人がいません。その中で頻繁にやり取りする人なんて、三本指でさえ余ってしまいます。そもそも用もないのに連絡するの苦手だし、どれだけ相手が連絡を(善意で)くれたとしても鬱陶しく思ってしまう。どうしようもない。

 いっそのこと、友人全員に嫌われてしまえば死ぬ口実になるのかなと考えることもあります。それでも、たった一人には死んでも嫌われたくないので無理なんですけどね。でも、その人にさえ嫌われれば、私の価値なんて失くなったも同然です。

 依存先を増やす努力も、自分の価値を高めることも、私にはどうでもいいと言えば乱暴ですけど。でも、友達が少なくても、社会的にはゴミでも、自分が自分でいられればそれでいい。自分の意思さえ貫けなくなったら、その時は両親の死を待たずに死にます。

 

 生きたくなる瞬間も、ないわけじゃないです。美味しいご飯を食べたときとか、知らなかった名作を観たときとか、好みの音楽を聴いたときとか。色んな一瞬の『生きたいな』があります。

 一瞬の『死にたいな』が、一瞬の『生きたいな』にまさってしまうことは理解してもらえることもあるんじゃないかな、という気持ちがあります。

 生きたいかもしれません。でも、死にたいかもしれません。できることなら、いつも生きていたいです。でも、それもちょっと難しい。

 人に迷惑をかけない死に方がないように、人に迷惑をかけない生き方もないのだと、本当に思います。ここでいう「迷惑」はだいぶ広義的ですが、人は大小それなりの迷惑、言い換えれば「おかげ」で生きています。

 それが当たり前で、自分だけが抱え込む必要も、深く捉えすぎることもないように生きていきたいですね。被害妄想やフラッシュバックが最近激しくてちょっと困ります。

 

 今月いっぱいまでこの状態が続いたら、通院も検討します。前とは違うところの方が良いのか、また悩むところですね。

 

 追伸。ワクチンを打てるのが早くて来月なので、副反応を体験するまでは生きるつもりです。皆さんもコロナをはじめとする病気や怪我などに気をつけてお過ごしください。