なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

『普通』とはなんぞや

 3月、始まりましたね。今年度も終わりに近づいてきました。私といえば、ここ数日は肩の荷が下りたのか、結構ぐだぐだと過ごしています。免許も無事取れました。

 最近、思うのは「わたしはよく『普通』がどうだというけれど、そもそも一体『普通』とはどういうことだろうか」ということです。

 辞書的に『普通』という言葉を表すのであれば、

 『①その類いのものとしてごく平均的な水準を保っていて、取り立てて問題とする点がない(良くも悪くもない)こと。②その類いのものに共通する条件に適っていて、特に変わった点が認められないこと。』(新明解国語辞典第7版)

また、

kotobank.jp

  以上のような感じです。突出した部分もなく、平均的であり、以上でも以下でもない……という印象を受けます。

 では実際、私という人間は「ごくありふれたもの」であるのか、と考えたとき。答えはまさに単純明快。「ありふれたものではない」というものにたどり着きます。

 屁理屈を言ってしまえば、人間はそもそも一人一人が「ありふれたものではない」のですが、そういう観点は一度置き。特性として、自分が『普通』にカテゴライズされるには少々難しいことを理解しています。

 それは、私が発達障害だからだし、不安障害や抑うつを抱えているからだし、今まで生きてきた中で周りとのズレを感じているから、です。この「ズレ」がどういうものかを説明するのが割と難しいんですよね。

 あえて書いてみるのなら、「幼少期から周りから少し浮いていた」、「迎合するのが苦手で、自分の意思を通そうとすると周りからからかわれたり、嘲笑の対象にされた」、「大多数がよしとするような考え方を否定していた」……というような。ただの捻くれ者にも見えますし、消極的で内省的な人間にも見えます。でも私の社交性のピークは中学時代だったし、高校以前は友達が少ないわけでもなかったんですよね。昔から自分の尺度でしか物事を捉えなかったのかもしれない。

 

言語化が難しい問題ほど考えることが楽しくなってしまうのは、答えがないか辿り着きづらいか、答えが複数ありすぎるか……どちらにせよ、簡単に答えを見つけられないからこそ、考えることが楽しくなってしまうんだろうなと思います。 

 『普通』の意味を辞書やネットで調べても、それこそ「ありふれた」回答しか見つからないのかもしれません。人によって基準は様々だし、でもその中で一定の、共通の尺度を持っているのだなと感じます。私は、その尺度から多少なりとも外れているんだろうと、感覚的に理解しています。

  令和になる前後ぐらいから、多様性やLGBT、結婚や夫婦別姓、ファッションや思想など、様々な価値観が表象されて、『普通』の形が揺らいでいっているのかなとも思っています。水面下でじわじわと、ですけど。「自分と異なるものをどう受け止めるのか・感じるのか」というのは、人間の課題の一つだと思っています。

 男は男らしく、女は女らしく、という考えが見直されているのはいいことだなと思います。性別や役割ではなく、ひとりの人として、見てもらえる日が来たら嬉しいですね。

 話がちょっとそれました。

 私は2,3年ぐらい前から、『普通』への憧れがありました。それは、友達もいて、恋人もいて、仕事も充実していて、ありふれている。そんな生活への憧れです。仕事から帰って部屋で一日中寝て過ごしたり、ベッドから一歩も出られずに時間を浪費するようなことはなく。心身ともに健康で、社会生活を謳歌できる人間。私はそれを『普通』だと思っていました。実際、それが本当に普通なのかはわからないですけど。

 普通じゃなくてもいい、自分らしく生きる。そう、心から思えるようになったのは最近です。元々の思想的に「自分らしく生きられないなら死んだ方がまし」という考えなので、割とあっさりと『普通』への憧れを捨てることはできました。し、これは子供の頃からの考えでもあるので、「自分らしさ」と「普通」を天秤にかけたときに、どちらに傾くかというのは明白でした。

 『普通』であることを望むのは、決して悪いことではないです。マジョリティであることの安心感はこの上ないでしょう。私はどうしてもマイノリティ側にいるという意識が強いので(実際がどうかは正直曖昧ですが)、『普通』に対して執着にも似たものを抱いてしまうんですけど。隣の芝生は青いみたいな感じでもあり、私のなかにもあるんだろうなという意識もあり。でもこんなに『普通』を意識してしまうのは、少なからずその外にいるからなのかな~とも思います。

 結局、『普通』とはなんぞや? というものの答えは見つかりません。「健康で文化的な最低限度の生活」を送れることであれば、みんな普通であってほしいと願いますけど。結局、人の解釈で生まれる尺度なんてあてにならないんでしょうね。

 私が思うのは、みんな普通じゃなくなればいいのになということです。そうしたら、もっと生きやすいかもしれないです。私も、誰かも。