なんでもないひとりごと。

ネガティヴ思考なADHDの、自分を見つめ直す為のブログです。

逃げた先にはなにがある?

「『逃げてもいいよ』という言葉は罠だ」、という言説を見かけます。「逃げた先のことを考えていない、無責任だ」みたいな。その通りだなとも思いますし、でもそもそも逃げた先になにがあるのかなんて、誰もわからないじゃないですか。

私は割と、逃げ続けた人生でした。勉強をしたくなかったから受験から半ば逃げるようにして、就職するのが嫌だったから大学に逃げました。結局就職からは逃げられませんでしたけど。もし就職できなかったら、私の『逃げる』人生は続いていたと思います。自分がそういう人間だと理解しているからです。

逃げてどう思ったかということなのですが、まあ大半は「逃げなきゃ良かったけど、逃げなければ心が折れて死んでた」なので中々難しいところです。

 

逃げたいと思った。逃げた。その先にはなにがあるのか? 新しい『逃げたい』ことかもしれない。そうじゃなくて、居心地が良くて幸せな世界かもしれない。

逃げるのって、自分が嫌な状況から解放されたいからそうするのであって、嫌な状況から逃れた後のことって正直どうでもいいんですよね。そのとき考えればいいやって思って生きてきましたよ、私は。だって、そのとき嫌だと思ったことから逃げるのに精一杯で他のことを考える余裕なんてなかったから。

「逃げていいよ」が無責任であるなら、「逃げるな」も無責任だと思います。逃げなかった結果心が壊れたら? 死んでしまったら? 責任を取れるのでしょうか。無理じゃないですか。

そもそも、逃げるのも逃げないのも、責任は自分自身にあるべきなんですよ。だって自分で選ぶものだから。自分が主役である限り、選択肢は自分で選ぶんですよ。

私はその選択だけは自分でやりました。学校選びも、どう生きていくかも、逃げた後の選択肢も。その結果が今の私なので、まあまあ遠回りはしてるかもしれないですけど。だから高校時代の担任がよく言ってた「お前のレールを俺が敷いてやる」という言葉が嫌いだったんですけど。

つい最近、自分の意思で選べないほど縛られた人の記事を読んだので、私のブログ記事だって十分無責任だと思ってますけどね。そもそも名前も顔もわからない有象無象の言葉を信じるなって話なんですけどね。ネットの面白いところですね。

逃げ癖がつく、という意見はまあごもっともですけどね。私も若干逃げ癖がついてしまってて、正直今もどうやって逃げようか考えてしまうときがあります。逃げなくていいのに、逃げたくなってしまうんですよね。社会で生きるというのは息苦しくて仕方がない。

学生時代の生活と合わなくてストレスが溜まって鬱になってしまったり、適応障害になってしまうこともあるようです。自分がそうなる可能性は存分にあるので、日々ビクビクしています。今のところは大丈夫ですけど。

この息苦しさから逃げたくなってしまうんですけど、これから逃げた先は、また別のしんどさがあるんだろうなということは想像に難くないです。主に金銭面。言うても金銭面だけなら別にいいんですけど、きっと私は世間と親のことを考えて胃を死滅させてしまう。

心がバキバキに折れる手前までは逃げないでおきます。存外心が強くなってしまったのは幸いというべきか。

再三言っていますが、これで私が仕事を辞めることになったらいよいよもって社会不適合者だということになると思います。壮大な人間実験なんです。結果が出るまで逃げるわけにもいかないのです。

人生から逃げるのはもう少し先になりそうです。